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詰将棋作家の見た世界
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HN:
首猛夫
性別:
男性
職業:
怪しい金融業
趣味:
詰将棋創作 音楽演奏
自己紹介:
昭和31年9月、東京生まれ。
詰将棋作家集団「般若一族」の生き残り。
詰将棋創作以外に、作曲(約100曲くらい)音楽演奏(ベース)。
人間についても、自閉的観点からいろいろ考えている。
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★2008/03/26 (Wed)
わたくしたちが日頃、これはわたくしの考えであるとか、わたくしの意志であるとか、の何かを持っている。
意見を求められたり、相談に乗ってほしいと頼まれたり、そのような場面で、自分なりの考えを持って解決しようとする。
その自分なりの考えはどこから来たのか?

以前、宗教はその地域性を持っていると書いたことがある。
宗教の持つ意味や異議が普遍性をもっているなら、時代や地域に関係なく広まっていったはずである。
ところが、イスラム圏ではイスラム教が、東南アジアでは仏教が、欧州ではキリスト教が広まっている。

これは明らかに宗教が、時代や地域によってその広がりに制約を受けているからであり、普遍性に欠けていることをあらわしている。

だから、宗教は実は洗脳であり、子供が親から様々な生活の技法を学ぶように、宗教を取り込んでいるに過ぎない。

もちろん、すべての個人の考えや意志が「洗脳」とはいえないが、わたくしはそのほとんどが何かの焼き直しだったり、強い影響を受けてのものだと感じている。

とくに日本人は全体での「和」を考えて行動することが顕著であり、個人の考えや意志は全体の利益によって「抹殺」されることもしばしばである。

ひょっとしたら、あなたの考え、意志は何かの代替品ではないか?
良く考えてみるといいだろう・・・・
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★2008/03/25 (Tue)
毎晩のように「ものがたり」の話をしていて恐縮だが、わたくしから見れば、この世の中で起きている殺人やら、戦争やら、汚職・セクハラ・詐欺・泥棒などの犯罪はすべてこの「ものがたり」によって引き起こされているように見える。

人は自分を語る時に必ず、互いの関係性のうちに説明をする。
それが「ものがたり」の正体である。
単純に切り離されたものは、例えば身長であるとか体重であるとかの数値化されたものに過ぎず、大した意味を持たない。

それを痩せているとか、太っている、あるいはノッポだのチビだのということばになれば、これは「ものがたり」として語られるものとなる。

その人が持つ属性を、大きなもので言えば国家や民族・宗教、小さなもので言えば出身地や家族構成、その人の特技など。

もちろん、それだけに終わらない、信条や道徳観などや趣味だの大切にしているものだの、そういったおよそ人間的といわれるあらゆるものを包含して、「ものがたり」は作られる。
そういった「ものがたり」なしに人は自身を説明できないし、証明も出来ない。

説明やら証明やら何だかそんなものなくても生きていけるという方もいるだろうが、積極的に毎日誰かに説明したり、証明したりという意味ではない。

あなたは誰ですかといった時に、何ら説明できないとしたら、どうします?
好きな女の人が出来たり、付き合いたいと思う男性が現れたときに、自分を説明できないとしたら・・・


わたくしにはこの「ものがたり」のウソや綻(ほころ)びが見える。

なぜか?
それは自閉的傾向によって、周囲の人々とは異なった世界観を持たざるを得なったことが発端である。
そうして、自分はどうして他者との間に深い溝のようなものだ生じてしまうのか、散々考えた。
自分はどこから来たのか、そういうことを考えている時に、ひょっとしたら人類は自分たちの不安の解消のために「ものがたり」をでっち上げたのではないかと。

そうやって考えていくと、人の作った「ものがたり」には実に多くの綻びがあるとわかってきた。
そして、「ものがたり」を互いに共有化できないと人は実に不安になる。
そうして共有化できるものたちと手を取り合って生きようとする。

それだけならまだいいのだが、そこから先が実に怖い。
共有化できないものを「敵」とみなして、仲間の結束を証明するかのように「敵」に対してそれを排他しようとする。

時に差別したり、いじめたり、あるいはまた抹殺する。

歴史上の大虐殺は、そういった民族的なアイデンティティの証として、他民族を抹殺しようとして行われたものである。

だから、民族としての誇りというコトバを耳にすると、わたくしは恐ろしくなる。
その裏側に潜む他民族に対する排他性を、歴史は証明しているからである。

そうして、「ものがたり」が持つ悲しい属性を知ってしまったわたくしには、「ものがたり」によって自身をさらに規定したり、「ものがたり」によって結ばれたりすることに相当な拒絶反応が生まれるのである。

そうした背景が見えずに、重ねられた事実を「ものがたり」によって再構築され、それに振り回されて、自爆テロだの民族の誇りのための聖戦だのと称して、挙句の果てには血みどろの醜い復讐劇に終始してしまっている、哀れな人々のことを思うと、「ものがたり」の綻びをしっかり見定めるまなざしを持って欲しいと切に願う。

★2008/03/24 (Mon)
わたくしは、保険代理業を営んでいる。
損害保険を主に扱っているが、生命保険の受注も結構増えている。
基本的にあまり勧誘しない変わった保険屋である。

いつも不思議に思うことがある。
車の事故のときに稀に耳にすることコトバ。

「わたしら、素人にはよくわからないので、よろしくお願いします」

こういう言葉は、都合の悪い展開になりそうなときに使われる。

具体的には、例えばクルマ同士の事故の一報が入る。
契約者によれば、相手に非があるとのこと。

しかし、専門家から見ればそうもいえない事故で、むしろ契約者側に非があるのではないかと、事故担当者からの連絡。
その理由をキチンと契約者に伝えようと、連絡すると多くの契約者は、わたくしの説明を聞かずに、前述のコトバになる。

つまり、自分に不利な話は聞きたくないのであろう。

そこでキチンと説明を聞くこと=不利を承諾すること

だから、聞かずに

契約者=素人 ⇒ただ見るだけ
保険屋=玄人 ⇒何とかしろよ

と言う図式であろう。
そして、素人と玄人の差は保険料と言う対価で支払っているとの言い分が見え隠れする。

そのときわたくしはどうするか?

あなたの起こした事故だから、あなたに責任がある。
話がわからないなら、とことんわかりやすく説明するから、話を聞いて欲しい。
そうしていやがる契約者にとことん話す。

素人だからと言って、わからないで済むような問題ではなく、あなたの置かれている民事的な立場を理解してもらわなければならないと伝える。

実は、上のような「素人だから・・・」と言う言い逃れは様々なところで使われる。
今の時代、消費者、加入者、契約者、様々な立場に置かれるわたくしたちは、自身が無知であるとの「被害者意識」は通用しなくなっている。
なぜなら、消費者などを守る法律が整備され、販売するほうの義務が明確になり、いってみれば、「文書等でちゃんと説明したはず、読まないあなたが悪い」と言うことになってきているのである。

そういう混沌とした時代だから、保険屋さんは人間的に信用できなければだめだと言う意見も貰っている。

社会が複雑になると、心理的な駆け引きはあまり意味がなくなる。
なぜなら、その程度の駆け引きは、販売する側の計算にはすでに入っているので、購入する側はそれ以上の用意が必要だ。

保険の値段は金融庁などの監督庁から、厳格に定めるように指導があるにもかかわらず、値切ろうとするものもいるらしい。

幸い、わたくしの顧客にはそういう人はほとんどいない。

それにしても、販売するほうにも購入するほうにも、厳しい時代が来た。
★2008/03/23 (Sun)
悲しいことに、ガンになった。
昨年の秋のことである。
いろいろなことがあったが、昨年末には1年の延命を目指そうと言われた。
言い換えれば、1年生きるのが精一杯と言うことであろう。

一回だけ泣いた。

なぜこんなことになってしまったのか・・・
しかし鬱にはならない。
心が落ち着きがなくなることはあったが、落ち込まない。

なぜだろうか?
鬱になるには、何かが必要なのだろう。
その必要なものがわたくしには欠けている。
だから鬱にならない、なれない。

必要なもの・・・
それは自らが置かれている状況や、扱われ方などが、この世の標準と比べてどうかという認識ではなかろうか。
つまり、相対的な自分の位置の確認だろう。

もちろん相対的なことだけではなく、絶対的な量が不足している場合にもこれは問題になるかもしれない。

そういう、位置の確認が出来ない。
従って自分がどのくらい不幸せなのか、あるいは幸福なのかがわからない。
ただ、お腹が減って、おいしいものを食べられた時は、幸せだ。
反対に、お腹が減っても食べるものがないと不幸せだ。
それは単純な反応ともいえるもので、「どのくらい」と言うことには言及できない。

例えば、そういう自分の位置に関心がないとか、それより大事なことがあるとか、そういうのじゃなくて、ただただ、出来ない、わからない、と言うことなのだ。

それは、自閉的傾向な人々にはある程度共通していることだと思う。

では、自閉的な傾向の人々は鬱にならないのかと言うとそうでもない。
そこには別のもう一つの特徴がある。
それは、「ものがたり」を信じていないことである。

何度も繰り返していうが、人類は本能による運営が困難になっている。
そこで、自分も含め、社会全体のあらゆる物事に、「ものがたり」を作ってきた。
国家、民族、宗教、歴史・・・すべては人類の「ものがたり」であり、これらを共有化して信じることによって、自我は支えられ、その存在の証明をする。

反対にいえば、実は人類の自我はその存在を社会性から切り離して一切証明することはできない。
社会的に存在しないものは、人類の自我にとっては存在しないのと同じである。

わたくしにとっては、もちろん「ものがたり」は必要なものであり、皆さんと同じようにあらゆる面で「ものがたり」を持っている。
しかし、「ものがたり」そのものの存在のからくりを知っている以上、そこに存在の証明や意義を感じることが出来ない。

だから不幸なことや悲しいことが起きても、それらが他の何かに変化しない。
不幸なことはあくまで不幸なことでしかならず、しかもその不幸な状況を作ったある一面に関してのみ、不幸を感じるのである。

例えば、わたくしの子供や親しい人が他者に殺されても、その殺人者にはあまり関心がない。
ただただ、喪失感に見舞われ、悲しいだけである。
その悲しみを正当化したり癒すために、殺人者に対して復讐とか、あだ討ちのような感情は一切起きないだろう。

このようなわたくしは、哀れと言うべきなのか、それとも嬉しいことと言うべきなのかはわからないが、鬱にはならない、なれない。


★2008/03/22 (Sat)

わたくしは、作曲もするし演奏もする。
この頃は、友人たちと「おじさんバンド」を組んで1980年代や90年代の日本のロックなどを楽しんでいる。

もともとはブルースが好きで、50年代のシカゴのアーバンブルースなどを演奏したいと思っている。

最近、TVのCMなどで使われる楽曲が30年前、40年前のもので、驚かされる。
そして良く聴いていると、ポピュラー音楽の世界はあまり進歩していない。
考えるに、音楽はほとんど進歩していないのではないだろうか。

詰将棋の世界でもここ数年進歩らしきものが見られない。
そういう危機感が音楽の世界でも、詰将棋の世界でも希薄なのはもっと怖い。

斬新で新たなものを作れなくなった世界の衰退は、早い。
表面的にうまく作って、雰囲気が出来上がって、一流になった気でいるのは、うぬぼれの世界では通用するが、新たな可能性やその萌芽のないものは、存在価値すらない。

リバイバルが横行し、盗用や盗作のようなものが氾濫している音楽の世界。
真の創作は難しい。

そこへいくと、おじさんバンドは実に楽しい。
むずかしいことは忘れて、アマチュア精神丸出しで楽しんでいる。
オリジナルティはとりあえず置いといて、合奏することの楽しさを満喫している。

対極にプロフェッショナルとは、苦しみが99%、1%の充足に命をかけている。
そこにいくには、いまのわたくしは体力がなさ過ぎる。


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★ ILLUSTRATION BY nyao