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詰将棋作家の見た世界
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HN:
首猛夫
性別:
男性
職業:
怪しい金融業
趣味:
詰将棋創作 音楽演奏
自己紹介:
昭和31年9月、東京生まれ。
詰将棋作家集団「般若一族」の生き残り。
詰将棋創作以外に、作曲(約100曲くらい)音楽演奏(ベース)。
人間についても、自閉的観点からいろいろ考えている。
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★2008/04/10 (Thu)
わたくしは、末期がんの患者だ。
ステージⅣの大腸ガンと診断され、直腸上部とリンパ・腹膜を手術で除去し、その後肝転移と腹膜播種が見つかり、しかもスキルスタイプの粘液がんのために、肝転移は手術出来ず、腹膜播種もがん性腹膜炎を起こし、その痛みのための麻薬を飲んでいる。

普通ならとっくに緩和ケアの段階で、ホスピス行きだろう。
しかし、わたくし自身もわたくしの主治医も、長い延命の果てにどこか治るだろうと高をくくっている。

こういうわたくしを見て、ほとんど多くの人が驚く。
いわく、怖くないのか?スゴイ精神力だ・・・、どうしたらそう前向きでいられるのかと。

たしかに、こういうわたくしでも、朝から晩まで「がん」のことばかり考えていた時もある。
さすがに命のともし火があと数ヶ月などという物騒なことになると、心もとらわれてしまう。

そうしたときに、「少量抗がん剤治療」に出会う。
抗がん剤を使うには使うのだが、がんの消滅や縮小を目的にした標準抗がん剤治療に比べて、患者の延命だけに焦点を絞った治療なので、希望が持てる。

がんとともに生きて、がんがあまり大きくならないようにコントロールする。
ただし、がんを殺そうと躍起になって、抗がん剤を大量に使うのは×。
あくまで、延命だけを考える。

この治療のもうひとつのテーマはQOL(生活の質)を下げないことだ。
抗がん剤治療は、常に副作用との戦いである。
なぜなら、抗がん剤はがんを殺す薬ではなく、がんも殺す薬なのだ。

従ってわたくしたちの生きていく上での大切な細胞も殺してしまう。

ここに一つのイメージがある。

抗がん剤治療⇒恐ろしい副作用⇒これを克服した人⇒がんから助かる人

このイメージに沿った、TV番組や出版物、映画、・・・
それらはすべて間違っている。

抗がん剤治療で重要なことは、副作用を避けることなのだ。

事実、わたくしを始めとして、今通っているクリニックに患者のほとんど多くは、ガンセンターや大学病院などで、余命の切符を切られた人々である。
にもかかわらず、患者のはこのクリニックに何年も通っている。
どうしてなのか?

それは標準抗がん剤治療にこだわらず、あくまでその人個人個人に合わせたオーダーメードの抗がん剤治療を行っているからだ。

そういう、すばらしい治療を受けて、わたくしは今奇跡を起こそうとしている。
一年も持たないとされたわたくしのがんが縮小し始めている。
少なくとも、腫瘍マーカーは何と下がり始めた。

ここで、先の「前向き~」という話になる。

わたくしがいつも「前向きでいられる」のは、大した理由があるからではない。
むしろ、反対にこれを読んでいるほとんどすべての人に尋ねたい。

「後ろ向きに考えることによって得られているものがあるはず、それは一体なんだろうか?」

後ろ向きに考えるのは、不安だからではなかろうか?
そういう不安を先取りして、不安の恐怖を払拭したいからではなかろうか。
ところが、本末転倒なことに不安を払拭したかったくせにますます不安が募るだけなのだ、その方法は。

前向きな気持ちと言うよりは、そういう選択しか冷静に考えればなかったと言うことになる。

驚いたことに、そうやって前向きに考える人ほど、がんが治っていく傾向がある。
まさかこの科学の時代に、と思ったが統計的な事実であるらしい。
まあ免疫力とは本来そういうものなのかもしれない。



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★2008/04/09 (Wed)
若い年齢層、それも10代前半の小学校高学年や中学生に、「携帯電話中毒」が広まっているという。。
朝起きたら、まず自分の携帯電話をチェックする。
朝ごはんを食べながら、メールを打つ。
打ち終わったら、すぐにメールが入ってくるので、それを確認して、再度返信メールを打つ。
家族と話す暇もなく、携帯電話とにらめっこしながら、出かける。

学校では、禁止されているので、一応かばんの奥にサイレンとモードにしてしまっておく。

放課後、学校を一歩でたら、すぐに携帯電話をチェックする。
以降、家に戻るまで片時も携帯を手放さない。

音楽を聴くのも、映像を見るのも、友達と話すのも、メール交換するのも、最新情報をチェックするのもすべて携帯電話。
携帯電話は、世の中とのすべての接点になってしまっている。
もし携帯電話がなくなってしまったら、彼女や彼氏の世界は崩壊する。

このように成ってしまったのはなぜか?

答えは明白。
そのように携帯電話付けにするほうが資本主義社会では好都合だからだ。

人間にとって、自分を定義するには、コミュニケーションが必須である。
そのコミュニケーションをただでほうっておく手はない。

これにお金を掛けてくれれば、この上ない商売が出来る。

そこで、携帯電話は単なる通信機器から化け物に進化した。
この化け物は巨額の富を産む。

大人になってしまえば、ある程度確立したコミニュケーションの世界に住んでいる。
それに比べて、不安でいっぱいの十代前半の子供たちにとっては、いついかなる時でも、コミュニケーションをとっていなければならない。

そこを狙った、うまいと言うかあざといと言うか、とにかくお金になると言った背景が見える。
まるで、十代の子供たちの対話を片方で奪っておきながら、その残った片方の手で、お金を掛けた子供たちには対話の場をくれてやると言った形が見えてくる。

勉強しなさい、片付けなさい、早く食べなさい、風呂に入りなさい、早く寝なさい。
多くの勉強を強いて、学習塾に行かせて、命令系統だけはしっかり通そうとする、日本の親。

子供たちは見ている。
誰が、自分たちに自分たちの世界を作ることを教えてくれるのかを。
誰が、自分たちの世界を、理解してくれているのかを。

悲しく引き裂かれた子供たちの自我は、悲鳴を上げて携帯電話にすがっている。

早くそのことに自覚を持って、大切なコミュニケーションをかたどっていかないと、この子供たちが大きくなって何をなすのか、考えただけでも恐ろしくなる。
★2008/04/08 (Tue)

夜逃げをした夫婦がいる。
わたくしの保険の仕事上の契約者の話で、個人情報なのである程度のことしかいえない。
この夫婦は、数年前運輸業の会社を興した。
最初は、小さな会社でどちらかと言うと、夫婦でトラックを運転していたことを延長した形だった。
ところが、大きな会社の下請け会社がうまくいかなくなってその会社を引き継ぐ形で急に大きくなった。

それまでは、経済的に苦しかったこの夫婦は、身を粉にして寸暇を惜しまず働き、三人の子供を団地に住みながら育てていた。

ところが、ここから彼らの人生に「転機」が訪れる。
会社を興し、うまいことに大きな会社を引き継ぎ、借金もそう多くはない普通の企業としては恵まれたスタートだった。
それからしばらくして、夫婦は団地を出て、家を買った。
中古のそう大きくはないが、それなりに家族五人が住める家だった。

ここにわたくしの一つの不安が脳裏をよぎった。
たいていの成功した企業家は、すぐに利益を放出しない。
様々事態に備えて、利益を上手に留保する。
もちろん税金に対しても合法的に、プロの意見を素直に聞いて自分でも研究して、企業を守る。
守るだけではだめなので、とうぜん攻めの手も考えるが、そこは慎重だ。

しばらくして、従業員が大幅に増え、夫婦は徹夜に近い形で働き、会社が大きくなるのを喜んでいた。
誰しも、薄給で窮々としていたところへ、その数倍の利益がもたらされれば、今まで我慢していたことを我慢できなくなる。

次に、大きな家を高級住宅街に購入した。
中古とはいえ、バブル期には2億円はしただろう物件だ。
その地域には、いわゆる「成功者」が住んでいて、夫婦はそのことを盛んに自慢した。
xxx産業の会長が住んでいる。
お隣さんは、xxx銀行の頭取だった人、・・・・。

自分たちもその成功者の仲間入りをしたと言いたかったのだろう。
考えても無理はない。
社会のどちらかと言うと低所得者層から、一気に階段を駆け上り、億の金を融資される側に回ったのだから。

わたくしが驚いたのが、犬だった。
大きなそれも一頭数十万円は下らないだろう、血統書つきの犬を三匹も購入したことだ。
大きな犬小屋は、庭に立っていたが、わたくしがその頃住んでいた家より広かった。

そうして、優雅な成功者としての毎日を送る一方で、この夫婦は一生懸命働いた。
低所得者層の頃の習慣で、実際の仕事に一生懸命だった。

しかし、大きな会社になって、そういうのは努力の方向が違っていた。
会社が大きくなれば、その会社の実務を直接管理運営するのには無理がある。
核となる人物を、主要なポストに配置して、そのものたちの人心を掌握するのが、何よりも肝要である。

従業員の遅刻や、服装態度の管理まで、こと細かくいちいち社長や専務が乗り出していたのではたまらない。
彼らは、大きな会社の運営のノウハウを知らなさ過ぎた。
大きなは物差しで計らなければならない相手に、今までの小さな定規で仕事をしたのだった。

雇い主の心理と言うのは、実に身勝手なものだ。
雇われていた頃には、自分の給料を始めとした待遇に文句ばかりつけていたくせに、
雇い主になったとたん、出てくる言葉は、

「親の気持ち、子知らず」

って言うわよね、全くいまどきの若い人たちは、給料が出るのを当たり前だと思っているのにね。

これにはわたくしも驚いた。
給料が出るのは当たり前だ。
そうして、従業員はあらゆる法律によって守られている。
雇い主側からの横暴な雇い方に対抗して、従業員を守るためだ。

少なくとも雇い主になるのなら、それらはまず勉強しなければダメだ。
雇い主として、要求していいこと、してはいけないこと。
従業員がしなければいけないことの範囲。
これについては異常なほど敏感だった。
そして鈍感なのが、雇い主としてやらなければならいこと。

驚くのは給料を払い、厚生年金をつけ、健康保険をつけることを、

「これだけやってあげてるのに・・・」

となにか上乗せしてあげている善意の雇用者のように振舞っていることだった。
これらは、当たり前すぎるほど当たり前のことで、これがあるからこそ、逆に従業員は長く安定して働ける。
そういう長く安定して働いてくれる従業員は、企業にとっては宝である。
宝物は天から降ってくるのではない。
雇用者側の努力で、育てていくのである。

あるときはともに悩み、あるときは一線を引いて、すべきことをして、やるべきことをやらせて、育てていくのである。

当たり前のことを、何かの上乗せのようにいうこの夫婦には、従業員に休暇を与えたり、給料の前借に応じたりすることは、

「親が子にするようなもの」

と自画自賛していた。

しかし、従業員の保険も扱っていたわたくしは、ここの従業員がこの雇い主である夫婦に、感謝していたり、ありがたいと思っていたり、はしてなかった。

なぜか?

それは簡単なことだが、この簡単なことが今の人類に出来ない。

それは彼ら夫婦が

「雇い主の心理」

から抜け出せないからである。
人間は立場でものを考えてしまう。
ある男の話だが、今までいっかいの従業員に過ぎなかったものが、雇われ社長になったとたん、従業員の遅刻が耐えられなくなったそうだ。
それまで平気で遅刻してきた彼は、遅刻がどんなにいらいらするものか、社長になって初めてわかった。
今までは、他人の家にお邪魔していたのが、自分の家になったとたん、汚れが気になるのと同じだろう。

それでは、ダメなのだ。

立場で考えるのではなく、そこには働いている

「働くのものの原理」

を考える、肌で感じることが必要なのだ。

ついさっきまで、このことを知っていたはずなのに・・・・・

哀れなこの夫婦は、従業員の心をつかめず、仕事が迷走し始め、つぶれかかった。
そのとき誰一人、彼らを助けなかった。
そうして、ある日、従業員全員に給料も払わずに、夜逃げした。


彼らが口にしていた、

「従業員手のは気楽でいいわよ、自分のことだけ考えてりゃいんだから」

を、逆にそのまま地で行って彼らは行方をくらました。

考え方一つ変えていれば、今頃は楽しい花見でもしていただろうに。

 

★2008/04/07 (Mon)

昨晩、賞状やトロフィーを捨てる話を書いた。
この話を以前にある場所で話したら、常識を知らないとか、人の気持ちを何だと思っているんだとか、相当の非難を浴びたことがある。
おそらく、わたくしのブログはそんなに多くの人が読んでいないので炎上することもないだろうが、もし多くの人が読んでいたら、大変だろう。

わたくしに言わせれば、営業の世界で他者よりも優れた成績を残すのは、ただただひたすらに働くことである。
人より長く、そして濃く、情熱を持って、それを継続することが大切で、これを維持するのはむずかしい。

それをなしたところに価値があり、その価値を知るのは同じように努力したもの同士だけであろう。
もちろん、それを「形」にすることによって、会社側は励みになってほしい、他の者もそれを見習ってほしい、そういう意味があるのだろう。
だから、表彰状やトロフィーと言う形になるのだろう。

しかし、だからと言ってそれに価値を感じるべきだと言うのは、筋が違う。
人はそれぞれ価値観が異なる。
こういう表彰状やトロフィーに全く魅力を感じない人間だっているのだ。

話は少し違うが、同じようなことが歌手の世界でもあった。
「17才」の大ヒット曲で知られる南沙織さんと言う歌手は、引退する直前、それまで大切に取っておいたステージ衣装に違和感を覚えたと言う。
これは「xx歌謡祭」「xx大賞」などのいわゆる賞レースで着ていた衣装だそうだ。
そのときには輝いて見えた様々な色とりどりのステージ衣装がある日から、チンドン屋のような衣装のように見えて、そのほとんどを捨てたそうだ。

これは、わたくしを非難するような人々の価値観から、わたくしのような価値観に変わった一例と言えるだろう。

こういうほとんどの人々が価値を感じているある要素X、このXを基にして何かを作ったり、それを差し上げたりする。
こういうことによって、社会の一部は出来上がっていて、それについていろいろ反対する人はほとんどいない。
だからそれが「標準」となって、これに賛同しない、参加しない、そういう人々は、「社会の外側」に追いやられる羽目になる。
もしこのXが政治的発言や、理論で語られるものなら、「少数意見」として「尊重」される。
まあ「尊重」されたところで、結局は無視されることになりやすいのだが。

ところがこのXがそのような、大げさなものではなく、今回のような賞のようなものだと、これに賛同しないものは、「変人」「奇人」扱いされ、非難されたり、疑われたりする。

自閉的傾向にあるものは、この点でも、社会的な差別や、特別扱いを受けやすく、その近くにいる近親者、親や兄弟、引いては本人も悲しい思いをさせられる。

わたくしは保険代理業を営んでいる。
契約者であり続けていた頃には、気がつかなかったが、あなたの保険解約して初めてあなたの価値がわかったと言われることがある。
わたくしにとって価値あるのは、契約自体でもあるのだが、それよりわたくしを信用して加入してくれることに意味がある。
だから、何らかの事情で保険を解約(例えば、車の保険を加入していた方が車を手放したとかの理由で)した場合など、わたくしから言わせれば、契約は切れても、わたくしを信頼してくれた事実は変わらないので、いつまでもわたくしのお客様なのだ。

結局は「信頼」が「仕事」を生み、その結果「収入」に繋がる。

だから、契約を頂いているか頂いていないかは、さしたる問題ではない。
しかし、それは世の中の「常識」から大きく外れる。
それがわからないように、トロフィーを捨てたことに対する非難もわからない。

いらないものを捨てるのに何で起こられるのだろう。
必要なものを大切にするのに、何で不思議がられるのだろう。
必要なもの⇒信頼、契約はあまり重要ではない。※

だからと言って契約者を大切にしないと言うことではない、念のため。


★2008/04/06 (Sun)

日本人は式が大好きだ。

卒業式、入学式、入社式、結婚式、・・・

そして必ずと言っていいほど、大して面白くもない話を延々と話すご仁がいる。
抑揚のない語り口で形だけは整っている。

こういう時は聞いている方の約半数は寝ている。

語っている本人はおそらく事前にいろいろ考えてのことだから、それなりに内容があると思っている。
しかし日本人の《ものがたり》は『うしろ指を指されない』こと『恥ずかしくない』 ことに重点をおいている。
従って無難でありきたりなものになる。

ではなぜ、このような無駄なことをするのだろうか?

それを解く鍵はその詰まらない話し(たいていの場合、祝辞として語られる)は某の高い地位にいる人がすることにある。

つまり欲しいのは内容のある話ではなく、誰が参加したかにある。
参加した招待客(来賓)の社会的地位がが高ければ高いほど、式の社会的な《格》も高いと判断される。

式の中身よりその『品位』『格』などが気になるのだろう。
これは式が社会的な儀式であればあるほど当然のことで、形骸化するのもやむを得ない。
しかし、よく考えてみれば、このようなやり方で日本人は互いの社会的な立場を認め合ってきたのである。
良いか悪いかは別として、自分たちの「世界」の「棲み分け」をそのようにして認識してきたのであろう。従って、日本におけるすべてと言っていいほどほとんどの式は、中身を問題にしない。
もちろん、中身にあれこれ云々する向きもあり事実内容の良さをほめることも多々見受けられる。

しかし真の目的は内容にはない。
あくまで、式はそこに加わった人々に、式によって区分けされる人々の社会的な立場を知らせるためにある。

この頃、密葬と言う葬儀の形が増えているらしい。
それは、社会的な立場を示さずとも、身内だけで故人をしのび、送ろうと言うもので、従前の式とは趣を異にしている。
これは、明らかに個人が社会的なつながりが薄く、関係性を分断されてきたことを示すものではないだろうか。

そういうわたくしも、気がつくとこの半年間で個人的な連絡などを頂いたことは数える回数しかない。
昨年ガンになったこともあって、少しは増えたが、それでも数は少ない。

どうやら、自分の社会的な立場に関心が薄く、もともと確認するのも面倒な、わたくしのような者には相手からもそういったことに関心のない繋がりが求められるようだ。

例えば、詰将棋の作品集などに、xx年xx月xx賞受賞などと、賞などの受賞歴を明示している人がほとんどだが、般若一族のHPにはそういた記述がない。
関心がないのだ。

わたくし自身も、仕事で営業成績抜群と言うことで、数え切れないほどの表彰状やトロフィーを貰ったが、そのほとんどはすぐに捨てた。
中にはホテルでの表彰式が終わってすぐに受賞のトロフィーを帰り道に捨てようとして、すごく怒られた。
こういうものに全く関心がないのである。

そういう意味では、社会的な諸々にかかわっているものの、基本的にはそのかかわりさえも面倒なのかもしれない。


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★ ILLUSTRATION BY nyao