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詰将棋作家の見た世界
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HN:
首猛夫
性別:
男性
職業:
怪しい金融業
趣味:
詰将棋創作 音楽演奏
自己紹介:
昭和31年9月、東京生まれ。
詰将棋作家集団「般若一族」の生き残り。
詰将棋創作以外に、作曲(約100曲くらい)音楽演奏(ベース)。
人間についても、自閉的観点からいろいろ考えている。
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★2008/05/05 (Mon)
何か新たなことを始めようとした時、中々余裕がなくて出来ないことがある。
時間的、精神的、あるいは経済的、そういった諸々の状況。
そういう状況が逼迫していては中々できるものではない。

しかし、自分の過去を振り返ると、「余裕」があったときには案外そういうことは出来ていない。
むしろいろいろと立て込んでいたときの方が、つまり「余裕」がなかったときの方が、新たなことにチャレンジしている。

これは何か?

やはり「意志の問題」ではないかと考える。
意志があるかないか、すべてをやる気の問題に還元してしまうこの種の考え方はあまり好きではないが、過去を振り返るとそう見えてくる。

例えば、新たなチャレンジを阻む何かの要素があるとき、これを言い訳として、迎え入れるか、「冗談じゃない、何とかしなきゃならん」課題として捕らえるかによって、気持ちだけでなくそれに対する取り組み方そのものが、違ってくる。

あまり無理な話として、限界を超えた新たなチャレンジというのではなく、誰にでもある人生の転機や、何か新たな趣味の世界のこととか、そのようなことだ。

残念ながら、ほとんどの出来ない理由は、やはり言い訳にしか過ぎないようだ。

うーむ、運動嫌いなわたくしは、やっぱり運動しない言い訳を続けていくのだろうか。
ラジオ体操一つが継続できない・・・
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★2008/05/04 (Sun)

議論。

議論を始める際に大切なことがある。
それはなぜそのような議論を求めるのかという最初の観点である。

議論をする以上、そこには何らかの目的があり、たいていの場合、主張する側にとって「自明の理」とも言うべき自信が備わっていて、あらかじめ何らかの結論めいたものが用意されている。
そして、その確認作業ともいうべき観点から議論が進められるので、キチンと新たな展開を求めたり、相手の主張を正しく聞こうという姿勢があまり感じられない。

だいたい、日本のあちらこちらで行われている議論のほとんどが、相手の話や意見を最後まで聞くということがない。

議論をする上での一番最初の原則は、意見を述べる権利の保障である。
もちろんあまりにもまとまりのない、感情に彩られるだけの、長い意見陳述などは、後々相手にされない要因を作ることになる。
だから意見を述べる側も、権利の保障に甘えることなく、わかりやすい、手短な要約があらかじめなされていなければならない。

まず、そうやって互いの意見をキチンと聞く準備が備わったら、次の段階で、問題になるのが「相手への尊重である」

ふだんから尊重するということに、ほとんどなれていない人々は、自説をさえぎられるとすぐに感情的になる。
議論という場はあくまで現実の諸々の背景を持った中で行われる。
だから、そこには必ずといっていいほど利害関係が存在し、自身の利益を守る側はそれが脅かされると、議論の上ではもちろん、その場を離れてでも、とにかく相手をねじ伏せることに走る。

当然そこにあるのは、自説に賛成してくれるものだけへの、尊重であり、自説に異を唱えるものに対しては、時に憎しみを持って接する。

これは、議論という場が、自分の「自己保全」のための場であり、意見を交換したり、相手の意見を聞くことによって、独善に陥る危機を脱したり、欠陥 をなくしたり、という姿勢が微塵もないことを意味する。

こういった「自己保全」に人が走るのは、いつも言っているように、自我は不安にさらされ、救いの手は遠のき、バランスをとることさえ難しくなっているからだ。

この自我とのかかわりあい方と議論とのかかわり方を幼いときから訓練していないと、冷静に議論を戦わさせることが難しい。
多くのTV討論会や、一つの議題をめぐっての論戦があまりにも稚拙で幼稚な次元で終わってしまうのも、基本的な議論に参加する者たちの姿勢がなってないからだと思う。

相手が言い終わるか終わらないかに言葉をかぶせ、自分のほうが正しいんだから黙って聞けというような姿勢で話が始まる。
そういうご自分こそ、黙って最後まで聞くべきだと思うのだが。

わたくしの経験によれば、議論に参加する人の約9割以上が、最後まで言いたいことをすべて喋っていただくと、実はたいした内容を持っていないことが、周囲にも時にはご本人にもわかる時がある。
そうすると反論の手間が省ける。

逆に傾聴に値する、内容のある1割にも満たない意見は、こちらに得るものが多く、思わず敵ながら天晴れと唸ってしまうことさえある。
もちろん、そもそも敵対することなく、一つの目標に向かって、議論を戦わせ、より良いものを作り出すことが理想なのだ。

だから、力で相手をねじ伏せるよりは、黙って聞いている方が、ラクで効果的。

正確に受けている方が、勝率が良いのは何も将棋に限ったことではなさそうですね。

★2008/05/03 (Sat)

以前にもこのコラムで書いたが、日本の進歩的文化人は「憲法九条」が大好きなようだ。
戦争放棄を謳った、この憲法は確かに世界に稀を見る条文である。


1:日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 
2:前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


そして、何かにつけ「戦争」をやりたがる自民党などの一部の議員が憲法改正と訴え、そしてそれに対抗するように、「進歩的文化人」の声援を受けて、憲法九条を守りたがる野党。

みんなも聞いたことがあるだろう、平和憲法を守れ!などというスローガンを。

わたくしにはこういうやりとりが陳腐に見えて仕方がない。

まず、世界中の国々から見て、日本の自衛隊は軍隊ではないなどという詭弁が通用すると思っているのだろうか?

あれだけの装備を持った戦略的兵器の数々。
実際のところ、今でも即戦力として十分に通用するだろう。

そして何より、米軍の駐屯である。
米軍を日米安全保障条約のもとに、「用心棒」として雇い入れ、申し分のない接待をしておきながら、片や「平和の国日本!」を高らかに謳いあげ、その憲法を守れとおっしゃられる。

このひどい分裂状態をなんといい表わせばよいのだろうか、言葉もない。

憲法がもともとアメリカによってもたらされたからダメだとか、古くて実情に合わないとか、そういう議論以前の問題で、現実に日本は世界中の紛争や戦争に直接的間接的にどうかかわってきたのかを見れば一目瞭然である。

世界の中でも異例の戦争大好きブッシュの後押しをして、資金援助をたんまりして、いってみれば暴力団の資金源として、世界中のもうけを一手に集めていた。

最近、少し商売が下手で、陰りが見えてきたものの相変わらずのうまさで、お金を儲けては、米国の旦那に貢いでいる。

そこで、憲法九条である。
いったいそんなものが何の役に立つというのだ?

あんたら、早う目え覚ませよ。

条文ももちろん大切だが、その条文のかげでどんな戦争支援をしてきたのか、朝鮮戦争のときに、「朝鮮特需」とか言って、敗戦国日本の資本的復興がどれだけ早まったことか。
言ってみれば、隣国の人々が殺しあう状況の中で、大もうけをしたのは一体誰だったのか?
そのとき憲法九条はなにを示してくれたのか?

いいや何も示しやしないよ。

歴史はいつだって、表の記録と裏の記録が混在する。

本当に守らなければならないのは、憲法などではなく、殺しあわないですむ自我の在り方ではなかろうか。

嗚呼平和の国、日本。


★2008/05/02 (Fri)



http://joshi-shogi.com/event/tumeshogi_calendar/2009.html

わたくしの作品も載っている日めくりカレンダー。
日本女子プロ将棋協会(LPSA)から出される、このカレンダーの今年の応募が始まりました。
6月末まで。
詳しくは上記サイトまで。

実は今年の分を昨日、身体の具合の悪いなか作りました。
一枚の駒を削るのに数時間、まだまだ満足がいかないので、もう少し改良します。
難易度は関係なく、良い作品をとの熱意からです。

わたくしの、創作能力はかなり低いほうだと思っています。
しかし、人を超えた情熱があるからこそ今まで作れたのだと思っています。

みなさんも、後世まで残るので、是非是非作って投稿しましょう。
ちなみに、きょうの日めくり問題は、わたくしの問題でした。

ぜひ、解いてくださいね。
★2008/05/01 (Thu)

小野寺達也氏、新しい風だと思う。
数作しか解いていないので、まだなんともいえないが、他人の詰将棋解いたの久しぶり。
難解さを伴ってはいるものの、駒のあるべき姿を「知っている」と思う。

これは、経験や理屈ではなく、感覚なんだろうね。

久しぶりに、その筋では本物とも思える人にあった。

ただ、その上でどんな世界を見せてくれるのか?
そこが、現代の詰将棋作家の厳しい状況を表している。
長編では、田島・添川両氏の見せてくれる世界を凌駕しなければ意味がない。
短編では、小林敏樹氏をトップにまさしく洗練され尽くされた機能美が究極まで推し進められている。
中篇の世界で、有吉澄夫氏があれまで評価されるのを見るに付け、詰将棋の世界はあまり進歩がないのかとさえ思う。
(まあ、有吉氏は別格だったのか)

パラの表紙は存外に易しい問題だったが、こうあるべきという姿をやはり見せてくれていて、無駄がない。

本物とであった時に感じる爽快感、淀みのない美しさ、それを感じたのは本当に久しぶり。
そこに、もう一つこの人だけが知っている「ある何か」を見つけて世界をなして欲しい。
きっとそれが出来る人だと思う。

新しき風に乾杯!

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★ ILLUSTRATION BY nyao