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詰将棋作家の見た世界
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首猛夫
性別:
男性
職業:
怪しい金融業
趣味:
詰将棋創作 音楽演奏
自己紹介:
昭和31年9月、東京生まれ。
詰将棋作家集団「般若一族」の生き残り。
詰将棋創作以外に、作曲(約100曲くらい)音楽演奏(ベース)。
人間についても、自閉的観点からいろいろ考えている。
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★2020/05/26 (Tue)
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★2008/04/30 (Wed)
ガン性腹膜炎を肝転移以外に併発して、オキソコンチンという麻薬を今常用している。
段々効き目が弱くなって、お腹をかばう姿勢をとり続けていたら、腰痛になった。

ひどくなって、起き上がるのに一時間もかかってしまった。
外科に行く気力もなく、仕方がないので、以前に貰っていた湿布薬を貼って、動かないようにしている。
しかしちょっと何かを取ろうとしたり、姿勢を変えるだけで、冷や汗が出るくらい痛い。

末期がんのいろいろな症状のようなもので、面倒だが仕方がない。

そうこうしている間に、腫瘍マーカーの値はどんどん下がって、まさに奇蹟のような感じだ。
いまだに、大学病院やガンセンターの扉を叩けば、治療法はありません、ホスピスに行きましょうといわれるだろう。

少量抗がん剤治療が患者の基本的な免疫力を温存した、画期的な治療とはいえ、このわたくしの悪性ながんが縮小するなんて夢想だにしないことだ。

がんは一口に言って、わからないことが多すぎる病気であり、一応の標準治療が定められてはいるものの、それがすべてではないことは、周知の事実である。
しかし、基幹病院などでは、この標準治療以外の治療法をしない。
標準治療をして、それで結果が出なければ、ポイッと終わりである。

こんな残酷ことが大手を振って行われている。
ちなみに、わたくしの抗がん剤治療は、

1:少量
2:したがって、副作用ほとんどない
3;自己免疫力温存なので、長い延命が可能。

ガンセンターでは、一年以内、もっても8月頃までといわれたこのわたくしが、逆に8月頃までにがんが消えそうだ。

もし、わたくしと同じ頃に同じ症状で、ガンセンターで手術した人がいたが、あの人はどうしているのだろうか?
もしガンセンターで抗がん剤治療を受けていたのなら、大量の抗がん剤で確かに、一時はがんの縮小や消滅は訪れるかもしれないが、身体の免疫力を奪われて、恐ろしいことになっているだろう。

すべて、少量抗がん剤治療が正しいのではもちろんない。
しかし、いろいろな可能性の中で、治療を選択できないのは、間違っている。
基幹病院で今も行われている、恐ろしい抗がん剤治療。
ある意味、がんよりも恐ろしい毒を流されているような気さえする。

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★2008/04/29 (Tue)

「MUSIC AIR」という音楽番組がある。
わたくしの事務所は、ケーブルテレビを契約している。
電波状況が悪いのと、わたくし自身が映画と専門番組しか見ないからだ。

そこで、マービンゲイの1980年モントレーのライブを観た。
あまりに洗練され、一種独特のスタイルにおどろいた。
構成はギター・ベース・ドラムス・ボンゴ・男性コーラス3人・トランペットの金管楽器4本・マービンゲイ自身のシンセ・・・・
それらがとにかく溶け合って、静かで力強い音楽を醸し出している。
醸成された音空間と言うのだろうか。
そこに大ヒット曲マーシーマーシー・ミー、ホワッツ・ゴーイン・オンなどのすばらしい音楽が折りこめられいる。
そんな感じだった。

普通に考えれば、楽曲があって、それを歌い上げることによって、音の空間が出現する。
ところがマービンゲイは違う。
マービンとその楽隊が作り出す静謐でソウルフルなビート抜群の不思議な音空間が生まれる。

そこへ、一つ一つの歌が流し込まれていく。
そういった感じなのである。

これは取替えの聞かない音楽空間である。
ブルース音楽は、こういう風な一面を確かに持っていたが、マービンゲイのようにそういった一体感を打ち出した音楽家は珍しい。
一曲一曲はもちろん独立した楽曲でありながら、一つの空間から生み出された風のような、自然さを伴って、我々の身体を包んでいく。
時として天才は思いも付かないことを表現してしまう。

45歳と言う短い生涯を、父親に射殺されると言う悲劇的な事件で幕を閉じた、マービンゲイ。
ちょうどこの1980年は一度栄光の座に登りつめた後、転がり落ちた最悪のどん底から再び這い上がるきっかけとなったツアーだそうだ。

今日はいい物を見た。
最高の音楽空間だった。

★2008/04/28 (Mon)
誰しも多少は自分を《当然の存在》として認識している。
 《当然の存在》それはわたくしの造語。
人としての何らかのあり方や方法について尋ねられて そんなの当然XXでしょう 答えられるそのような人のことを指す。

 もし《当然の存在》が失われると、ほとんどすべての自分自身に起きていることに懐疑的でなければならなくなる。

 しかし同時にその度合いが強いのも考えもので、常に当然と思うのは、考える余地もなくある種の事柄に、同意を強要している。

実はその人が、 属しているある社会性の集団の中では「当然」と思われているに過ぎない。
だから、そのように共通の集団に加入している(あるいは、勝手に自分はその集団の一員だと思っている場合もある)自分を再認識する為にも、《当然の存在》口にする。

所得格差を如実にあらわすような、地区が日本のあちらこちらには点在している。
たとえば、「山の手」にたいする「下町」であるとか。
そのような場所や何かの地位、社会的場所を示すところに、自分自身が帰属しているという意識が、《当然の存在》を成立させている。

そのような社会的場所を何らかの形で見出し、あるいは同化し、そういう「仲間」とうまくやっていくのは、大切なことだ。
そうすることによって、元々社会的存在ではありえなかった人々を社会につなぐ大切な役割を果たしている。

問題は、わたくしのように、そういう場所が中々見つからずに苦労したものたちだと思う。
行き着くところは「へんてこりん村」の住人でしかなかった。

しかし、わたくしも、わたくしなりの、《当然の存在》を毎日このブログで発信している。
ただし、相変わらず、このわたくしの、《当然の存在》は中々受け入れてもらえないようだ。
さびしい限りだ。

           
★2008/04/27 (Sun)

久しぶりに、詰将棋を作ることにした。
ネットで、毎週水・土の夜10時頃から詰将棋の作品を出題して、みんなに解いてもらう。
そういうところが将棋倶楽部24にある。

そこで、わたくしの新作?(未発表だが28年位前に作ったもの)を発表したのが、きっかけ。
しかし、わたくしの場合、普段は7手詰みも解けないので、「将棋の脳」にするのに時間がかかる。
いったん、エンジンがかかれば、スイスイと読んでいくことが可能なのだが、歳をとるにつれ、このエンジンがかかるまでの時間が延びていることに気がついた。

また、わたくしの場合、こんなことをやりたい、あんなことを描いてみたい、と言う風に狙いを決めて作るので、あまり失敗がない。
ただし、そうやって実現したいことが、そもそも無理なことだったり、思い通りに描けて満足していたら、その思いそのものがあまり人にとって魅力的でなかったり、とやはりむずかしい一面がある。

この間も、一風変わった作品の構想を練っていた。
玉の軌道上に詰方の駒があって、通常の追い方をすると、その駒をパクられ、それを合駒されて詰まなくなる。
そこで詰め方は駒損をしてまで、その軌道上の駒を逃げておき、後々の合駒を制限して詰まそうと言うもの。
実はすでにこれにはわたくし自身の作例があるのだが、35手でしかも超ややこしい。

簡単で面白い短編に出来ないかと、考え中である。

それにしても作るのは大変だ・・・。

★2008/04/26 (Sat)
昨日、自己愛の強い、いわばほとんど自分にしか関心の持てない人たちのことを書いた。
こうした人は、わたくしが考えているよりその数はずっと多いと思われる。

戦後民主主義の下に育てられたこの人たちは、異種民族、異文化の混在型のアメリカから輸入された教育制度の中で、同時に控えめで全体を尊ぶ従前の日本的な背景を持った空気を読まされて大人になった。

簡単に言えば、分裂以外の何者でもない。
片方で自己をしっかり主張せよと迫りながら、残ったほうの手で謙虚であれ、出る杭は打たれるぞと脅かすのだから、始末に終えない。

やせ我慢が身体に悪いのなら、こんなに身体に毒な教育はないだろう。

これらの分裂は全く根拠のないものではなく、戦後の日本の姿を現している。
あれだけ憎しみを持って接していた「鬼畜米帝」に対して、終戦の日が一夜明けたら、ギブミーアチョコレート。

心の底では軽蔑し憎んでいるのに、その助けがなくては生きていけない。
なにやら、哀れな幇間の姿がダブってくる話ではなかろうか。

さて、そのような分裂的な国家の姿が個人の中で沸騰して、昨日書いたようなあのようなことになる。

悲しいことに、時代や国家の間で揺さぶられながら、自己という船を操舵しているものの、船着場もなく、碇もおろせなくなってしまっている。

おそらく、本質的に自分のしたいことや望んでいることもわからずに、他者がいなくなって独りになったときに、茫然自失となる自己と対面しなくてはならない。

こういう人たちの自己への関心は、それ自体が何を意味することもなく、例えば、俺にはこんなことが出来るんだぞ、どうだ、結構俺も中々面白いだろう、等々のような内容を伴ったものではなく、強迫観念のようなものに引きずられているにしか過ぎない。

一番、この話で空しいのは、本人は全く気がついてないということだろう。
この人たちは、自信にあふれ、世間では優秀な人だと認知され、それなりの「哲学」をもって仕事に遊びに生きている。

ああ・・・

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★ ILLUSTRATION BY nyao