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詰将棋作家の見た世界
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首猛夫
性別:
男性
職業:
怪しい金融業
趣味:
詰将棋創作 音楽演奏
自己紹介:
昭和31年9月、東京生まれ。
詰将棋作家集団「般若一族」の生き残り。
詰将棋創作以外に、作曲(約100曲くらい)音楽演奏(ベース)。
人間についても、自閉的観点からいろいろ考えている。
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★2008/05/10 (Sat)
ガン性腹膜炎を併発したわたくしにとって、これを手術しないというのであれば、麻薬で痛みを抑えるより他に手立てはない。

しかし、この疼痛を抑えるには中々の難しさを伴う。
的外れなのも、まずいし、増量していけば便秘や吐き気が出てくる。

こんな状態で、よく仕事が出来るなあと自分に感心したり、コントロールを心掛けて頑張れるものと努力の方向を褒めてあげたりしたくなる。

とにかく、痛みとの戦いはいよいよ壮絶なものとなってきた。

先の日記でも書いたが、失敗すると現れる痛みは、今まで生きてきた中の考えられる痛みと痛みが違う。
人間としての尊厳を失うほどの痛みはこんなものかと思った。


幸い腫瘍マーカーの値が下がり続けている現在、過渡的な症状と考えられるが、これが平行に推移したり、少しでもあがれば話が異なる。

そうなると、心の支えも失いがち。
しかし、わたくしの本領はそこで発揮されるだろう。
そう数値の上下は何かに影響しないのである。
だから、数値の変化は確かに何らかの良い方向へのバトンになるが、それ以上でも以下でもない。
意味が繋がらないのである。
まあ、これからが麻薬との戦いでもある。
楽しく面白く戦いを繰り広げていきたい。

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★2008/05/09 (Fri)

指し将棋の世界の進歩。
特にここ十数年の進歩は、それ以前の進歩とは明らかに異なる。

それは、茫洋として、感覚的にしか見えなかったものを、はっきり見つめるようになったことだ。
あまりに複雑で、判断が困難な状況に対して、

「どう指しても一局」

などという曖昧模糊とした判断が通用していたのだ。

ではそのような変化は誰がどんな形で表したのだろうか

まず、それは米長永世棋聖によってもたらされた。
低段の頃から異常な終盤力を持って、将棋をひっくり返していた。
言葉は悪いかもしれないが、序盤はC級、中盤はB級、終盤はA級といわれ、あまりの落差にたいていの人は同じ人が指しているとは思えないほどだったらしい。

米長永世棋聖の偉業は、形成判断と実際の具体性とを結びつけたところにある。
いまさら何を言うのだと怒られるかもしれないが、実際に「これにて先手良し」といわれた局面から、勝つまでは大変だということを実践して見せてくれたのだ。

序盤から終盤までを一本の線でつなぎ、それを最初に示してくれたのは、升田幸三九段と言われているが、実際に多岐にわたり中終盤の形勢を具体的な勝利の方程式に結びつけるのは至難の業だった。

わたくしたちが、何気なく手にとって読んでいる定石の本。
そこに、何の代償もなく一歩損すれば、負けに繋がると書いてある。
しかしそれはうそだといいたくなる。
その勝利に繋がるための「具体的手順」の複雑怪奇で難解極まりない内容といったら、天才米長をもってしてもこれだけの時間がかかったかと思う。

しかし、米長永世棋聖はやってのけた。
まずかけ離れた彼自身の内側の差をなくすべく、若手に教えを請うような形で、序盤を勉強した。
これは、恐ろしいことである。
地位も名誉も、すべてを投げ打って、彼は名人に成るべくして成るものとしての自身を磨いていたのである。
そして、真にものごと(この場合は将棋)の本質を究明するものだけに与えられる、特殊な空間を認知する恩恵を受けたのである。

そして、彼は名人になった。
その歴史的名誉よりも、彼自身の真の偉業は、将棋とは何かということに人類がある決着を付けたその瞬間に立ち会えたことだろう。

いまや、米長永世棋聖の予言したとおりに、将棋界の勢力地図は進んでいる。
そして、その勢力を維持している先頭集団こそ、米長永世棋聖によって歴史の扉を開けてもらった者たちなのである。


★2008/05/08 (Thu)

わたくしのガン性疼痛に使われているオキソコンチンはモルヒネ系の薬剤。
驚いたことに、通常に見られる中毒性、習慣性はがん患者には少ない。
ほとんどないといっていいほどである。

だから、医師は麻薬について制限をしない。
もちろん無用の増量とか、意図的に無駄な増量はしない。

実はわたくし、痛みのコントロールに失敗して、あまりの激痛に昨晩12時頃(真夜中)に目が覚めた。
主治医とは違う先生だったが、いろいろ話が出来て、良かった。

ガン性疼痛に関してはこれを我慢すること自体に何の利益がないことから、医師間の常識として、量の制限を基本的にしないようになっている。
しかし、日本はその面で非常に遅れていて、先進諸国の中で、麻薬の使用量が極端に少ない。
それは「我慢」に何か特殊な価値でも見出したかのような振る舞いである。

例えば、麻薬の量を制限しなかった末期がん患者のグループと、いろいろ制限して、麻薬そのものあまり投与しなかったグループとでの、その後の生存率を比べると、あらゆる観点で比較してみても、麻薬の量を制限しなかった方が高かった。

こういう事実を確認しているわたくしでさえ、ついうっかり痛みが強まっているにもかかわらず、忘れていた。

死ぬような、腹部が発火するかと思うほどの痛みが続き、頓服として使っているオプソを服用、オキソコンチンもさらに50mg増量して、何とか耐えた。

これで、腫瘍マーカーの値が下がり始めているので、まだ良かった。
もしそれがなかったら、絶望的ではないか?
しかしそうであってもわたくしはきっと何某かの理由をつけて、希望を捨てず、地獄の底からニヤニヤしながら這い上がるだろう。

そういう、理屈で理解できない「アホ」な一面ががんに打ち勝つ要因だと思っている。

★2008/05/07 (Wed)
わたくしが、詰将棋を仲間と創作していた頃、常々感じていたことがある。
それは、詰将棋の世界の向こう側に潜む何かを、表そうとしていたこと。

詰将棋はあくまで「世を忍ぶ仮の姿」でその世界が描くある何か特殊な空間のねじれを、表したかったのである。

将棋世界最新号(2008年6月号)に掲載されている天才先崎学が書いた今期名人戦七番勝負の第一局。
その中の一説に

「・・・4五に位のある形は異様な空間で、盤全体がこの地点からねじ曲がっている。・・・・」

という表現がある。

わたくしは先崎学という天才が、勝敗を競うレースから降りたことを最初は非常に残念に思った。
もちろん、彼自身は今でも現役のプロであるが、その才能から言って、今の状態は不本意どころか、道を踏み外している。
才能だけなら、おそらく後にも先にも彼の独壇場ではなかったか。

それがどうしたわけか、彼は第一戦から退いた。

すべてを捨てて、恥を忍んで、もう一度一からやり直して、名人になれる器である。
しかし残酷なことに神は彼に様々な才能を与えすぎた。
上の一文など、将棋界でこれを書けるのは先崎学ただ一人であろう。

道がそれた。

そう、わたくしたち「般若一族」はまさにその異様な捻じ曲がった空間、そしてその特異点を、見つけ応用して、作品を創っていった。
そして、そのような特殊な空間、歪んだ場、ひずみのある領域は何も詰将棋、将棋の世界だけにあるものではなく、実は人間の認識の偏りにその実態がある。

わたくしたち「日本人」が「日本人」であることを真に意識できるのは、「日本人」ではない「外国人」を認識したからである。
その論理で行けば、わたくしたち人類の認識の限界・偏移は「宇宙人」の存在で明らかになるのだろう。

わたくしたちは、詰将棋という一種のパズルを通じて、その世界の向こう側にある、人類の英知、限界、偏移を表したかったのである。
そうすると、創作にとって最も重要なのは、その世界の向こう側に何があるかを見つめるまなざしということになる。

それはおそらく、既成概念のない、自由な、まなざしだと思うが。
★2008/05/06 (Tue)

今夜の独り言は、コマーシャル。

まず、最初に断っておかなければおけないことがある。
今回の話題となる、ある不動産会社のコマーシャル。
わたくしは、この不動産会社に対して、何一つ批判的な意見は持っていない。
むしろ、コマーシャルとは何かを知りぬいた人たちによってCF(コマーシャルフィルム)を作った点は十分評価できると感じている。

この頃、テレビを見ていると、

まず有名司会者が、マイホームを購入した人あるいはその家族と話をする。
その内容も、あくまで一般論のようなもので、今回CFを作った不動産会社のことを話題にはしていない。

「ハッピーライフ、ハッピーホーム、タマホーム」

という歌が流れてきて、最後に

「タマホーム、いいねえ」

と言って終わり。

これを最初に見たときのわたくしの驚愕!

とにかくあんなに驚いたのは久しぶりだった。
みなさん、あなたがもしスポンサーで、コマーシャルを作るとして

1:自社製品の良さをアピールしない。
2:具体的な「差」を一切示さない。

この二つを容認できるだろうか?

わたくしにはとても出来ない。
何のためにコマーシャルを作るのかと言えば、

1:自社製品のよさをアピールする。
2:具体的な「差」を示す。

の2点を強調するためであり、これを全く逆の発想で行うのは×。

ところが、実際にこのCFに近いものが、毎日茶の間に流れている。
そして、この種のCFが成立する背景は、一緒だった。

実はこの種のCFは、

「商品そのものにはもう差がない」

場合に作られる傾向がある。
つまり、

1:自社製品のよさをアピールする。
2:具体的な「差」を示す。

という2点が元々ないのである。

この頃は商品開発が進んでいて、たいていのことは互いのライバル者同士で、考え付いているとしたものである。
だから、消費者がその商品を手に取ったときに、明らかに差があれば別だが、そうでなければ、イメージしかない。
商品力に差がなければ、イメージで差をつけて売る。
それがこのCFの戦略である。

しかも、それが自社のアピールをしないと言うのだから二重のオドロキである。
これは、消費者側がもうすでにいろいろ勉強していて、よほどのことがない限り、商品に差がないことを「知っている」からである。
そこへ、「わが社が一番」という嘘くさいCFより、「商品」を一般的な側面、今回で言えば「マイホームを持つことの喜び」を訴えればよいと言うことだろう。

しかしこれはやはり逆転の発想である。
おそらく、このCF効果を誰よりも驚いているのは、作った会社自身だろう。








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★ ILLUSTRATION BY nyao