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詰将棋作家の見た世界
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HN:
首猛夫
性別:
男性
職業:
怪しい金融業
趣味:
詰将棋創作 音楽演奏
自己紹介:
昭和31年9月、東京生まれ。
詰将棋作家集団「般若一族」の生き残り。
詰将棋創作以外に、作曲(約100曲くらい)音楽演奏(ベース)。
人間についても、自閉的観点からいろいろ考えている。
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★2008/03/31 (Mon)
音楽を楽しんでいる。
バンドを組んでコンサートをしたり、作曲をして録音したり。
そうしていると、音楽仲間が出来る。

バンドを組んでいる人々は、創造性に飛んでいて、スタジオに入るたびにいろいろなアイディアが飛び交い、それを実現するために、一所懸命練習してくる。

作曲も、新たな挑戦として試みている。
既成のものの焼きなおしや、どこかで聞いたようなものであってはつまらない。

そうして音楽にかかわってくると、「知っている人」がいる。
様々なバンドのねた話や、音楽的にいかにも知っている人たちだ。
プロと知り合いだったり、そういうサイトに出入りして、批判的なことも書いたりするが、自身は作らないし、楽しまない。
何が面白くて、そんなことをするのかは、わたくしにはわからない。

詰将棋が面白いと思ったら、もう作っていたし、音楽も聴きだした頃と作り出した頃は同じ頃だ。

もちろんこの世には様々な人たちがいて、それぞれに役割を持っていて、批判的な記事を書くことが仕事だったり、解説したり、知っていることを共有化することも大切なことだとは思う。

ただ、わたくしはそういうことを選ばなかっただけ。
そして、あれこれの知識を「知っている人」の話を聞いているよりも、すぐにコーラスをつけたり、ギター片手に一緒に歌ってくれる人と、音楽の時間を楽しんでいるほうが数百倍楽しい。

音楽の知識は全く知らないが、音楽を楽しむことをわかる人といると実に楽しい。

詰将棋も長らく解説をしてきたが、あれこれ普及のためと思って書くよりも、人をわなにはめるために?いろいろ画策して作っている時間のほうがやはり数百倍楽しい。

どの世界にも、傍観者としていろいろ言う人がいて、それはそれでいいのだが、やはり一緒に楽しむ人が、わたくしには必要だ。
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★2008/03/30 (Sun)
人、百人を集めて何かを教えると、それぞれの理解力に差が出る。
早いもの遅いもの、深くまで理解するもの、浅い上に勘違いするもの、様々だろう。

一昔前に、ゲームで「Dの食卓」と言うソフトを遊んで見ないかと友人から言われて遊んでみた。
ところがこれがさっぱりわからない。
何をどうして進めていいかがわからないのである。

そこで、友人に尋ねてみたら、「若い人」はそこで迷うことなく目的を達成出来るそうだ。
もちろん、教えてもらえれば、実に簡単なことなのだが、それがわからない。

おそらく、世代ごとにこの差は歴然とするだろう。

ここに、「見えない同意」を感じるのである。
つまり、説明しなくてもその世代(ゲームを楽しんできた世代)には、ゲームの進行に関しての基本的な動作は十分理解できるのである。

これと同じようなことが、教育にも言える。
「見えない同意」を使って、いちいち説明しなくても、ほとんどの子供が理解できる。

ところが、わたくしのようなアスペルガー症候群だった子供には、それが出来ないことが多い。
そこで、多くの大人たちの反応は

「こんなこともわからないのか」
「わざとやっているのか」
「変わった子供だ」

と言うようなものだった。

当然と言えば当然の反応だが、もしこれが海外からの「異文化」をもつ子供だったら違った反応だっただろう。
アスペルガー症候群の子供は、いわば「異文化」の子供たちである。
その「異文化」を否定したり、遠ざけるのではなく、理解し、違いを説明し、それに沿った教育をすれば、かなりの成果を上げられると思う。

「見えない同意」はそれを持っている人々には当たり前過ぎて、存在すら気がつかないし、もちろん出来て当たり前のことだろう。

しかし、それは多数の論理でしかありえなし、驕れるものの考えであろう。
そして、当然と思っているものが壊れたり、維持できなくなったときに、初めてそれを持たないで何とか自我を運営するものたちの意義も問われるだろう。

わたくしが、人類の自我に「ウソ」を見るのは、そういった経緯による。
これを読んでいるほとんどの人々には、当然のことと思っているあらゆる概念が、実は「捏造」され「都合よく書き換えられた」ものだと考えても良い。

差別は必要だし、宗教は何万人もの人間を動員したり制圧するための便利な道具にしか過ぎない。

日本人が日本人としての自我を意識できるのは、海外からの訪問者が訪れて初めて出来たように、人類は人類としての自我を意識できるのは、「異端」の民が訪れて初めて理解できる。
最初は、宇宙人でも来ない限りわからないかと思ったが、「自閉的傾向」は十分宇宙人の役割を果たしている。

もちろんわたくしのような「自閉的傾向」の民から見れば、多くの普通の人々が理解出来ない。
★2008/03/29 (Sat)
いま、国会で道路特定財源が問題となっている。
国民の税金を、官僚たちが湯水のように、自分たちの老後や娯楽のために使っている事実が次々と明らかになっている。

また、誰が見ても使えない道路とか、民間に任せれば20分の一で済む経費を、計上して、国土交通省の役人の天下り先に支払っているケースとか、数え上げたらキリがない。

結局これは「たかり」である。
税金を国民のために使うのではなく、自らの快楽や娯楽のために使っているのだから、「たかり」といっても差し支えないだろう。

一体いつからこのような「たかり」は生じてきたのだろうか?

仕事と称して、不要な接待や、高価な食事をする人が、役人や官僚だけでなく民間にもいるが、誰も彼も、日本人は「たかる」のが好きだ。
こういった不潔で、私利私欲に走る精神構造は、ある特定の者たちにあるのではないと思う。
おそらく罪悪感のかけらもなく、「おいしい生活」を甘受し満喫しているのではなかろうか。

そういった不要な経費がめぐりめぐって、物価の上昇や大切なものが犠牲になっている事さえ気がつかない。

官僚や役人のことを「たかり」と称して批判する前に、ほとんどすべての日本人にある「たかり」に対する鈍感さを何とかしなければ問題の本質は変わらないだろう。

おそらく、わたくしの勝手な憶測ではあるが、お金に関してわれわれ日本人は、どこか「被害者意識」を根強く持っているような気がしてならない。
そういった「被害者」だから、「たかれる」ときには喜んで「たかる」のではないだろうか?

わたくしは、接待と称して面白くもない連中と、高価な食事を共にするものの神経がわからない。
そういった無j神経さを持ちながら、他方では食事の中身を云々する感性を持ち合わせている図太さや、貴重な時間を面白くもない連中と一見楽しく過ごしているような見事な「仕事ぶり」に、驚く。

そういった「離れ業」が出来るのも「被害者」ならではの行動であり、正当化だと思う。
付き合いだから仕方がない、必要悪、世の中はそうして「潤滑油」があるからうまくいく・・・・
まるで政治家の言い訳と同じ。

わたくしから言わせれば、「官僚」や「役人」を非難する前に、自己の「被害者」偽装や、「たかりの本質」に目を向けるべきだと思うが。

★2008/03/28 (Fri)
わたくしは、幼いころどうやらアスペルガー症候群だったらしい。
その症候群の子供とよく似た症状を、持っていたようだ。

その中の顕著な傾向として、言葉の裏に隠された「あうん」の呼吸のようなものが見えないというのがあった。
冗談や皮肉が通じない。

いわば見えない同意もその一つで、普通は感激したり、感謝したり、するような事柄がわからない。
すると、相手はこちらに悪意のようなものを感じることさえ出てくる。

もちろん、こちらには悪意とかわざとという感覚は一切なくて、ただただ言葉を額面どおりに受け取ったり、その言葉の裏側に潜んでいるある種の共通の感覚が理解できなかったりしているだけなのだ。

徐々に付き合いが深まっていくうちに、こちらに悪意がなくむしろ、裏表がない分、誠意を感じてもらえることもあるが、たいていの場合は、嫌われる。

そうしたことを繰り返していくうちに、日本人でありながら、日本にいるとまるで外国にいるような違和感を覚える。
しかしそのうち、外国映画や外国人と接したり、すなわち外国の文化と何らかの形で深くかかわっていくと、その外国の文化とも違う、何か普通ではないものを自分に感じるようになる。

きっと、わたくしと同じような違和感を人類の文化に感じた人は多いと思う。
異端というには、さしたる特徴はないが、変わっているという印象はもたれていたと思う。

そのような文化の違いが「ものがたり」の対象化を進めることができる要因となったと思うっている。
★2008/03/27 (Thu)
俳優の石田純一氏に言わせれば、女の人にもてるのは実に簡単だそうだ。

まず、相手の話を聞くこと。
彼に言わせれば、たいていの人は「聞いてもらいたい病」とのこと。
だから、女の人が少しでも話を始めると、男はその言葉に自分の言葉を重ねてまでも、話してしまう。

そんな男の中にあって、相手の話をじっと聞いているというのは、かなり評価される。
そして、聞くには一つのコツがあって、話の語尾を繰り返すのが効果的らしい。

女:「~って言うことがあったの」
男:「へぇー、~って事があったんだあ」
女:「それだけじゃないのよ。xxxも、あったんだよぉ」
男:「ええっ!xxxもあったのかあ」

とまあこんな感じだ。

彼が言うまでもなく、現代のコミュニケーションは壊れていて、多くの人は自分のことを聞いてもらいたくて仕方がない。
なぜか?
簡単言えば「ものがたり」の同意性を得られないからだ。

戦後、民主主義が広まって、世の中の「ものがたり」を押し付けることは少なくなった。
職業選択の自由、男女間の差別の撤廃、多数決の論理・・・・
こういった進歩的な社会の思想が人々に広まるのと時を同じくして、「ものがたり」はばらばらになっていく。

そうした、孤立・孤独に直面した自我は「ものがたり」に確信が持てず、自己不安の解消のために作られた「ものがたり」までもが反対に不安を増長することになってしまった。

そこで、不安で不安でたまらなくなった自我は、とにかく「聞いてもらいたい」自己が如何に不安で大変なのかを。
悲鳴のようなものだろう。

しかし、そのような一方的な、コミュニケーションは何も得るものがなく、結局は不安の解消には程遠い。

自由の対価とは案外こういったことを指しているのかも知れない。
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★ ILLUSTRATION BY nyao