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詰将棋作家の見た世界
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HN:
首猛夫
性別:
男性
職業:
怪しい金融業
趣味:
詰将棋創作 音楽演奏
自己紹介:
昭和31年9月、東京生まれ。
詰将棋作家集団「般若一族」の生き残り。
詰将棋創作以外に、作曲(約100曲くらい)音楽演奏(ベース)。
人間についても、自閉的観点からいろいろ考えている。
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★2008/02/13 (Wed)
毎日のように、メディアを通じて悲しい事件が報道される。
その度に、こんなひどいことが許されていいのかと思うだろう。

しかし、わたくしはそう思わない。

悲しい事件がこれほどまでにあるのは、もともとわたくしたち人間は、今のような自我の組成のままで、倫理的道徳的な規範の下に行動することがむずかしいからだ。

だから、規範そのものに無理があると思う。
元々守れない物を作ったのは、己を知らない愚かさを露呈している。

例えば、教育者が次々とセクハラで逮捕されたり、首になったりするのは、最初の頃は騒がれたが、いまではさほど騒がれないくらいに多くなった。

これは、接触する機会が多いからで、つまりは、目の前にチャンスがあれば、規範も何もあったものじゃない。

そこで、わたくしが考えるのは、理想の規範を考える前に、日ごろわたくしたちが、どのように行動しているのか?
それを下に規範を決めると言う方法である。

例えば、セクハラの例で言えば、教育者であろうと誰であろうと、セクハラに及ぶと考えて、行動に規制をかけるやり方だ。

このように、するとがんじがらめになるようだが、女性専用車両などはそのような考えに基づいている。

給食費未納なども、その一例で、遊ぶ金はあっても、給食費は払わないという親が多くいる。
ならば、払わない家庭のこどもには、給食を出さないと言うのもこの思想に基づいている。

このようにしていくのは、報酬や入手するものは、常に何かの労働や対価に対応すると言うやり方に通じている。

これは現実の人間に対してもっとも効果的な手法であろう。

悲しいかな、このようにしないといけなくなったのは、自分の思想、自分の家庭、自分の領域をあまりに大切にしすぎた、現代人の末路だと思うが、どうだろうか?
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★2008/02/11 (Mon)
わたくしは、ガンになった。
昨年9月に、ガンの宣告を受け、以来治療に励んでいる。

しかし、何でガンになったんだ?
どうしてこの俺が?

と考えてくなるのは人情だろう。
しかし、そういう後ろを振り返るのは、ガン治療にとってはよくない。
常に明るく前向きであることが大切だという。

この世には、理不尽とも思えるような運の悪さで、死に到ったり、
病魔に冒されたり、するケースがある。

そして、たいていの場合そこにかかわった当事者や、親族などの人々は
なぜ?と問い返さずにはいられないだろう。

そして、人々は必ず、

《それが何によってもたらされたか?》

を考えずにはおれない。

例えば、流行感冒などによって、死んでしまったケースと、
誰かに殺されてしまったケースと、
同じには考えられないだろう。

また、自分でどこかにぶつけて、額にたんこぶを作ったのと、
誰かに殴られて、たんこぶが出来たのでは、
やはり受け止め方が違う。

しかし、起きてしまったことは同じ。

どうして、人は

《それが何によってもたらされたか?》

を考えるのだろか?

これがわたくしには、理解できない。
もちろん将来のために、同じ過ちや悲しい思いをしないように、
原因を分析することは大切だ。

しかし、多くの場合、そういうこととは無関係に、人は

《それが何によってもたらされたか?》

を問うのである。

例えば、わたくしは親しい者が死んでしまったとして、

《それが何によってもたらされたか?》

とは考えない。
ただただ、悲しいだけだと思う。
それ以外に何を考える意味があるのだろうか?

わたくしは、未来に対しては計算が働くが
過去に対しては懐かしさしか感じない。

過去を計算したり分析したりするのは、
常に未来に対しての働きかけに関してのみ。

どうして、

《それが何によってもたらされたか?》

を考えるのか、わかる人はわたくしに説明して欲しい・・・





★2008/02/08 (Fri)
マスメディアによる、失言の追及。

国会議員や大臣は歴史的に見て、幾多の失言を繰り返している。
差別的な発言や、心ない中傷、思わず本音が出てしまって失脚した大臣もいる。

およそ、マスメディアに露出の多い人々は、それだけ世の中に対する影響も大きい。
それゆえにCMに起用されたり、イメージキャラクターになったり、引っ張りだこになる。

倖田來未さんもその一人で、歌やダンスだけでなく、その生きている様が、若者を虜にしている。
ファッションや、その生活姿勢、好みに到るまで。
だからこそ、幾多の一流企業のCMに出演している。

その人が、つまらないことを言ってしまった。
つまらないだけならいいのだが、その言葉によって傷つく人も大勢いるだろうとのことで、
CM企業が次々彼女を降ろすことになった。

そして、謝罪となる。
その謝罪が、あらかじめとられたビデオだということで、不満が出始めている。

わたくしたちは、日ごろ食事などを共にする、同僚や知人、あるいは友人などと、
世の中の様々なことを話す。
そこでは忌憚のない本音が語られる。

そこには放送コードに触れるような話も多々あり、差別的な話もある。
しかしそれが、日常生活であり、多くの人々は本年と建前をうまく使い分けている。

この多くの人々もまた、公共の前ということになれば、当然ある種の制約を受け、
建前で話すことが要請される。

それが出来ないのなら、公共の放送には出られない。

そういう「チェック」がわたくしには恐ろしい。

彼女の言葉には確かに毒があったと思う。
しかしそれで傷つくのだろうか?
心ない言葉を聞くことは、この世のどこにでもある風景だと思う。
それを、公共放送の中では「きれい」にすると言うのはいかなる意図なのだろうか?

ダメだよそんなこと言っちゃ
と叱れば良いのではなかろうか?

少しでも外れた言葉があって、それを許さないと言うことになって、一定の基準を満たす謝罪がなければ
いつまでも許さない、そういう風潮がコワイ。

わたくしたちは、みんな毒をもっている。
その毒は確かに他者を傷つける。
現実には、心を傷つけるどころか、毎日のように殺人事件が報道され、いじめで自殺する人々がいて、
心中のような悲惨なことも起きている。

そういう、毒をわたくしたちは持っている。

それを全くなかったかのように、またそれを絶対許さないかのように、
失言は追求され、謝罪を求められる。

だったら、現実のこの世の中に起きている、もっと悲惨でもっと傷つける恐ろしい諸々を
なぜ追求しないのだろうか?

わたくしたちが、なぜ心の底に毒を持っているのか?
それをなくすにはどうしたらよいのか?
そういった議論はせずに、倖田來未さんのケースは追求され謝罪を求められる。

追及する人々にはたして毒はないのか?

あなたは誰かを傷つけてしまったことはないのでしょうか?


★2008/02/05 (Tue)
恐ろしいことに、日ごろスーパーなどで購入する食品に毒が入っていた。

一体何を信じて、食べていいのか?
それよりも、なぜこんなにも中国製品が市場を占めているのか?

それは、実に簡単なことだ。
安いからである。

安さに飛びついたのは、他ならぬ日本の多くの消費者だった。
丁寧に作っていた農家は、どんどんつぶれていった。
価格破壊、だって貨幣価値があまりに違うから、中国産は安い。

そうして、安さに飛びつけば、自国の農業は崩壊する。
今となっては、後戻りは出来ない。

食物の多くを輸入に頼らざるを得ないのは、国家がひいてはわたくしたち消費者が目先の安さに目がくらんで、自国の農業を省みらなかったからである。

安さを追い求めるのは人情だろう。
誰だって、いい暮らしはしたいし、食べるだけで遊びの余裕もないのは困るだろう。
第一、そうやって安さを追い求めたって、たいして裕福な暮らしをしているわけではなかろう。
教育や他の生活費だってばかにならない。

しかし、安さを追い求めた時に起こるだろう、想定の範囲の近未来について、あまりに思慮がなかったとも言える。

もちろん輸入に頼ったことと、今回の毒入り食品とは、すぐに関連付けられるものではないだろう。
しかし、食の安全を考える上で、自給自足率があまりに低い現状に驚いたのである。

もっと、安さばかりを追い求めずに、自国の生産者を大切に扱うとか、もっと互いに創意工夫をして、安くてよいものを生産者も消費者も作っていく。

そういった、大きな視野や、観点を養わなければ、同じようなことがどんどん起きるだろう。

そうして、そういった観点を養うことこそが教育で求められているのではないかな。


★2008/01/30 (Wed)
痛ましい、心中事件が相次いで報道されている。
特に、日本人の自殺には家族を道連れにすることが多い。

近松門左衛門の頃から、「美意識」に心中があるのかもしれない。

しかし、米国で日本人の母が子供を道連れに自殺したが、本人は助かって殺人罪に問われたことがある。そのとき多くの在米の日本人が、この事件が病気を苦の心中であることから、母親に対する助命嘆願書を出した。

これが中々理解されなかったらしい。

文化的尾背景の違いから来るものだろうが、ここで問題となるのが、「こども」は誰のものかと言うことだ。

日本人の多くは今でも、「こども」は親のものだと思っている。
だから、自身の死と「こどもの生」は繋がっている。

だから殺しではなく、「道連れ」なのだ。

では所有とは一体なんだろうか?

こどもの個性を引き出す、こどもの意見を尊重する、こどもの・・・

一見、こどものことを考えているふりをしているが、一般に日本の親はこどものことをあまり考えていない。

競って塾に通わせ、顔を見れば、「勉強しなさい、片付けなさい、早く食べなさい、早く寝なさい・・・」
結局は自身の価値観を押し付けているだけに過ぎない。

わたくしはこれが悪いとは思っていない。
親がこどもにその価値観を押し付けることが教育の真の姿だろう。
それをあたかも、「そんなことはない、こどものために良かれと思って要るだけで、押し付けた覚えがない」といま流行の「偽装」が許せない。

結局は、いざとなれば自身の所有物であり、その生を奪う日本の親の姿はどこかうつろで悲しい。
そしてそれを「偽装」までして、自身はこどもの「味方」と詐称している。

本当に怖いのは、そのことを日本の「こども」たちが薄々気付き始めていることだ。
こどもたちの復讐の影が忍び寄っているといったら、言いすぎだろうか。

人が人を所有することは決して出来ない。
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★ ILLUSTRATION BY nyao