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詰将棋作家の見た世界
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首猛夫
性別:
男性
職業:
怪しい金融業
趣味:
詰将棋創作 音楽演奏
自己紹介:
昭和31年9月、東京生まれ。
詰将棋作家集団「般若一族」の生き残り。
詰将棋創作以外に、作曲(約100曲くらい)音楽演奏(ベース)。
人間についても、自閉的観点からいろいろ考えている。
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★2008/04/22 (Tue)
今日、18歳の少年時の犯行に対して、死刑判決が下された。
内容はともかく、原告者の「死を以って償う」と言う言葉が印象的だった。

さて、世界では死刑制度がどんどん廃止される傾向にある中、日本では厳罰化される傾向にある。
これはどうしたことなのだろうか?
しかも、非常に理解しがたいのが、死刑判決が下りてから、いまだに死刑がなされない「死刑囚」が多くいることだ。

普通に考えれば、順番に死刑になるはずのものが、そうではない不思議さ。
何を遠慮しているのか?
それとも死刑と言いながらそれは一つのパフォーマンスに過ぎず、執行となると何らかの躊躇せざるを得ない何かの裏があるとしかいえない。

さらに、わたくしがいつも疑問に思うのが、死刑が犯罪の抑止力にならない点である。
それは世界の死刑を廃止した国々で明らかになっている。
廃止した後に、その国の犯罪が凶悪になったり、廃止前に死刑処すべき者が増えたりはしていないのである。
つまり、死刑と言う制度は犯罪の抑止力になりえない。
それは歴史が証明している。

ではなぜ、死刑が現在もわが国で存続しているのか?
それは民意と歴史だと思う。

簡単に言えば、「復讐」「仇討ち」である。
死に対して、死を持って償う。
まさに冒頭にわたくしが原告から感じた言葉そのものだ。

たしかに、突然家族の命を奪われたものの、悲しみ、苦しみ、恐ろしさ、人を信じられなくなるもろさ、等々、痛いほど伝わってくる。
しかし、それらを乗り越えたり、それらの出来事を自身に位置づけることと、死刑を望むことは別の問題だ。

残念ながら、「死を以って死を償う」ことは出来ない。

遺族が、悲しみを正当化したり、様々なことを心の問題として苦悩を重ねていくのも理解できるが、それを「仇討ち」「復讐」では、結局、死者を一人増やすだけのことである。

断っておくが、何も原告の考え方が間違っているとか、苦しみや悲しみを正当化している、あるいはそういうことがいけないとは思わない。

ある日大切な家族や友人を奪われた人々の悲しみの深さや苦しみの果てのない広がりについて、わたくしは理解しているつもりだ。

しかし、わたくしは「復讐」にも「仇討ち」にも関心がないし、死をもたらした人間にも関心がない。
あるのはただただ家族や親しい人を失ったと言うことだけである。

それどうして、あのように異常なまでの関心を持つのかと言えば、それは失ったもの、取り返しの付かないものへの執着からだと思う。
その異常さや、執着心は、ある意味当然であり、理解できなくはない。
しかし、わたくしがそういうことに関心がないのは、それは失ったものへの、そのものの気持ち以外に関心が持てないからである。
だから、わたくしが持つ異常さや執着心は、失ったものそのものに対してのみであり、死をもたらしたものには、何でそのような関心を持つのかがわからない。

言ってみれば、死をもたらしたそのものと、わたくしは、死に関して以外に、接点がない。
つまらない対象でしかない。

そしてもっと理解できないのは、「墓前への報告」である。

かねてから、宗教や死に関するひとの「ものがたり」にはうんざりしているわたくしだが、「墓前に報告」は何か自分に対する自己愛の強さを、表しているに過ぎないのではなかろうか。
もちろんこういうわたくしの意見いは相当数の方が批判するだろう。
なぜならそういう自己愛の強い人の時代であるから。

わたくしは、小泉八雲や萩原朔太郎の死生観がしっくり来る。
死してなお名を残さず、一刻も早く忘れて欲しい。
無縁仏の墓地に、適当に骨をうずめて、早くわたくしのことを忘れて欲しい。

そういう死生観である。
死してなお愛を求めたり、語りかけたり、それは心のうちの自分自身にすべきだと思うし、それ以外の所作はどこか偽善的で、欺瞞に満ちている。

そしてそのような偽善的で、自己欺瞞が充満しているこの現代だからこそ、さまざまな唖然とするような事件が続出していると思う。

家族を失った人々の深い悲しみや、果てのない苦しみは、そっとしておいて上げたい。
そしてなお社会はそういった人々に対しての、思いやりのある社会、社会復帰を切に願うような民意を反映して言ってもらいたい。
それこそ、「死を以って償う」ことが出来ない面を皆で支えあうのが社会であって欲しいではないか。

「復讐」「仇討ち」は何も生まない。
もううんざりだ。




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