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詰将棋作家の見た世界
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HN:
首猛夫
性別:
男性
職業:
怪しい金融業
趣味:
詰将棋創作 音楽演奏
自己紹介:
昭和31年9月、東京生まれ。
詰将棋作家集団「般若一族」の生き残り。
詰将棋創作以外に、作曲(約100曲くらい)音楽演奏(ベース)。
人間についても、自閉的観点からいろいろ考えている。
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★2008/04/05 (Sat)

わたくしは、中学三年生のとき一年間に約400本もの映画を観た。
京橋に近代美術館フィルムセンターというのがあって、午後6時から二本立てで日替わり上映していた。

学校が終わると、母から世田谷の池尻から京橋までの往復バス代と映画代、牛乳とパンの夜食代を貰って、毎日通った。
観客のほとんどが中年以上のおっつあんで、中学生などは見渡してもわたくしだけだった。

上映作品は、1940年~50年代のフランス・イタリアなどの映画が中心だった。

ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の「舞踏会の手帳」「地の果てを行く」「望郷」「陽気なドン・カミロ」・・・
ヴィットリオ・デ・シーカ監督の「自転車泥棒」「ミラノの奇蹟」・・・

今から、およそ35年前に、さらにその頃から20年遡った映画を観ていたのだから、時代を感じさせる。
しかし、内容は斬新でおそらく今見ても面白いのではなかろうか。

土日は、渋谷や新宿の名画座へ行った。
ロードショウは高くて見れなかったので、2本立て3本立てのしかも安い「名画座」が狙い目だった。
情報誌は「ぴあ」だけで、しかもわたくしが映画を夢中になってみた翌年の創刊。
当時は新聞だけが唯一の情報だった。

いくつか心に強く残ったエピソードがある。

例えば、「バニシング・ポイント」
おそらく、興行元の期待を大きく裏切る「大入り」で、確か新聞の広告が「遂に24週連続のロングラン大ヒット!」のような見出しだった。
それが、「名画座」に降りてきて、3本立て120円!くらいになって初めて観たのだった。
ただただ車が走り抜ける映画なのだが、その話の周囲のエピソードや、時代背景などが見事に映し出されていた。
この映画を12月30日に観にいって、次の大晦日にもう一回観にいった。
それだけ強烈な映画だった。

また、「風とともに去りぬ」はわたくしにはとてもつまらない映画だったが、生まれて初めて腰痛になった。
何しろ3時間半、途中休憩があったが、ずっと立ちっぱなしだったのだ。

川崎の銀星座と言う映画館には驚いた。
高倉健の「唐獅子牡丹」だったと思うが、とにかく高倉健が銀幕に登場すると、観客がそれに向かって大声で「いよっ!健さん、日本一!」などと叫ぶのだ。
おそらく、仕事にあぶれた港湾労働者などが、安い娯楽として楽しめるので、日長映画館に足を運んでいたのだろう。

今にして思えば楽しい思い出だが、思春期の友だちがいて遊ぶのに忙しいこの中学三年生の頃に、孤独な暗がりでじっと銀幕を見つめているのも変わっていたと思う。

友だちはとても少なく、どちらかと言うと、仲間はずれにされ、気がつくといつも一人だった。
自閉的傾向からか、周囲はわたくしを避けていたのだろうか?

映画は、時空を超え、民族を超え、あらゆるものを対象化して、わたくしにいろいろなものを見せてくれた。

今もわたくしは「避難所」から、遠く人類の描いた様々な思いを「映画」に観ている。

 

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★2008/04/04 (Fri)

なんともスゴイ表現で、「思いやり予算」とは、あきれ返るしかない。
在日駐留米軍の戦闘以外にかかるお金。
いわゆる日常生活の経費?を面倒見ようじゃないかという予算。

昨年までこれを自民とに追随して認めていた、民主党も今年この予算に対して

「何で休日の遊興費であるバナナボート代まで、出さなきゃならんのだ!」

と反対している。

こういった議論の背景にあるのは、なぜ日本国には米軍が駐留しているのかと言うことだろう。
もちろん、表向きの理屈は、親米国家である日本国がアジアでの米軍の戦略に対してこれを支援していると言う構図だ。
そのために、土地を提供して、お金も出して、いろいろおかしなことがあっても我慢してきた。
そういう日本はどこか被害者である。
そこで、米兵が少女を強姦して、タクシー運転手を殺害して、ひどいことをしても騒いでいるのはその地域や被害者に近い人間だけだ。
そうでないのなら、とうにもっと厳しい態度で米軍とかかわってきたはずだろう。

わたくしに言わせれば、これは分裂以外に説明の方法がない。

一方では、親米であり、何兆円ものお金を支援して、戦争加担をしてまで米軍を守っている。
その代わりに、日本人は銃も持たず、戦地に赴くこともなく、戦争反対を唱えて、憲法9条を守るんだとのお題目を唱えることが出来る。
汚い仕事は、米軍に押し付けて、その代わりにお金を支払っている。

もう片方では、そういう「守られている」自分の本分を忘れて、米軍を憎み、出て行けと大声で怒鳴っている。

勘違いをされては困るので、明言するが、わたくしは米軍を擁護するつもりは全くない。
人を殺したり、暴力で事を成立させたりするの大嫌いだ。

しかし、日本人は片方では汚い仕事を押し付けておきながら、片方ではその汚い仕事を非難すると言う、明らかに分裂しているとしか思えない態度で、発言している。

思いやり予算とは、まさに陳腐な命名だが、分裂している日本人の象徴的な姿を感じさせる。

現実に世界では、自分たちの意見や思想を唱えるごとに、人が殺されると言う理不尽なことが横行している。
もちろんこういったことをやめるべきだし、愚かな殺戮から卒業してもいいはずなのだが、中々人類はこういったことがお好きなようだ。
そういった現実を無視して、自分たちだけは戦争を起こさないときれいごとを唱えていられるのは、米軍に汚い仕事を押し付けているからに過ぎない。
こういうことを忘れて、米軍出て行けというのなら、汚い部分は自分たちで引き受けるべきだろう。

例えは違うかもしれないが、子育ての大変な部分(オムツを取り替えたり、お風呂に入れたり、掃除洗濯したり・・)をベビーシッターに押し付けて、自分は一切そういうことはしないくせに、成果は全部自分にあるといいながら、ベビー叱咤に文句ばかりつけている。
子育ての経験は全くなく、ただベビーシッターにお金を払っただけなのに、親としての自分を語るようなものだ。

★2008/04/03 (Thu)

食は本能が壊れてしまった人間にとって、単なる欲望を果たす行為とは言えなくなっている。
世界を見渡すと、ある民族の食習慣は、他の民族にとっては考えられないものであったりする。
日本人は蛸を食べるが、これが欧米人には信じがたい食文化らしい。

同様に、ゴキブリの一種を佃煮にして食べる文化が南アジアのほうにあるが、これをとても食として認められる日本人は少ないだろう。

言ってみれば、たんぱく質などの栄養を何によって得ようとしているかの問題であって、その地域性などが食文化を決めている。

そこで、捕鯨問題だが、なぜ鯨がいけないのかといえば、それは人間に近いものを感じるからではないだろうか?

映画「ジャイアンツ」で、子供たちが日頃遊んでいる七面鳥を、ハロウィンだったか何かの時に、食べるシーンがある。
自分たちが食べている肉が、仲良く遊んでいた七面鳥と聞いて子供たちが泣く。

人は、本能による自己の運営を離れたといってよい。
本能行動が壊れたと言う人もいるし、本能に勝る運営を獲得したと言う人もいる。
壊れていようが勝っていようが、とにかく本能行動を離れたところに、人類の行動原理が存在しているのは間違いない。

そうした人類は、くどいようだが「ものがたり」を作って自我をそこに当てはめて、運営をしている。

その中に食文化もある。
動物の本能レベルと人類の食文化とを比べて見れば、煮たい焼いたり、保存したり、それを盛り付けたり、その食器にこだわったり、と忙しいことこの上ない。
単なる、食の欲望を満たすだけなら、このような調理や盛り付けなどは一切不要である。
これを、文化にまで押し上げた(文化を本能に比べて上だという意識からすればこのように「押し上げた」と言う言い方になる)のは、人類の「食のものがたり」だろう。

それに他の民族や考えを持った人々がいろいろいちゃもんをつけたり、反対行動をとるのは、文化の差を認めようとしない傲慢な考えであろう。

例えば、豪州ではラム肉などを食べるが、羊を大好きな日本人が、これを許さないといったら、どうするのだろう?
そこで彼らがなぜ鯨が×なのかを、明らかにする必要がある。

おそらく今までの流れからいって、鯨は哺乳類であり、高等動物であり、人類に近い存在だからではないだろうか?

この考えは恐ろしいものを含んでいることに彼らは気がつかない。
優秀であるとか、人類に近いからというのであれば、反対に優秀でないもの、人類から遠いものであれば、食べても構わない、と言うことになる。

これは、食文化に伴うある種の残酷さを、優秀なものには許さず、劣等な者には平気で行うと言うもので、牛や豚は愚かだから殺しても構わないが、鯨は優秀だからダメと言うものである。
そのような考えが、第2次世界大戦でどれだけ恐ろしいことを引き起こしたかを、彼らは知らないのだろうか?

自分の考えや、行動を支える思想が、間違っているとは露とも思わない。
その傲慢さんも怖い。
少しでも考えれば、簡単にわかるこのようなことに気がつかないのは、心のそこで日本人そのものに対する憎悪の上が強いか、日本人そのものを劣っていると見ているからだろう。

スポーツやチェスなどの勝負を争う競技で、強豪が実力を出せずに負けるパターンの一つに、読みの独善がある。
相手を軽んじて、自分の読みの独善差に気がつかずに、相手の力に負けたと言うより、自ら転倒したに近い。

捕鯨問題と言うより、これを問題にして過激な行動をとっている一部の豪州人などの人々の、自らの存在を証明する「ものがたり」に何か歪んだものがあるという一面がクローズアップされているのだと思う。

人類は、いまだに戦争をやめられず、差別をやめられず、幾多の戦争や殺し合いから学んだ教訓を生かせないでいる。
簡単なことをいつまでも引きずってやめられないのは、そのような愚かな行動が実は自分たちの存在を証明するための行動で、必要不可欠になったいるからに他ならない。
そういった、内部の問題に目を向けずに、他民族が何を食べているかが気になるのは、(自分たちだって「優秀な羊たちを毎日屠殺している」にもかかわらずに!)、自らの犯罪を正当化して、他者の犯罪を非難している強盗のようなものだろう。

哀れ人類は、簡単なこともわからずに、20世紀の殺戮の世紀を引きずって、毎日殺しあっている。


★2008/04/02 (Wed)

ブルースというと、日本人のほとんどは何らかのイメージで誤解している。

黒人音楽=暗い=ブルーな雰囲気

まさにベタな発想で、ブルースを誤解している。
ブルース(正確にはブルーズと発音する)は黒人音楽の一形態で、その音楽形式は定型的なものである。
しかし、中にはこの形式を遠くはなれてやはりブルースである楽曲も存在する。
例えば、スキップ・ジェームスのハード・タイム・キリングフロー・ブルースは東洋風な感触がある。
まさかこれがブルース?と最初は驚いたが、何百回と聞くうちにその背景にブルースの魂があることに気付かされる。

ブルースは、おそらく世界で初めての試みである一面を持っている。
それは、かなり個人的な事柄を、みんなの前で歌うことである。

有名なクロスロード・ブルースには、

「十字路に来て、へたり込んだ。
友達のウィーリー・ブラウンに伝えてくれ、俺は何とかやっていると。」

と言う一節があるが、まさに個人的なことを、大衆の前で歌う。

また、プリーチン・ブルースは

「今日は日曜日、教会行ってお祈りするか、それとも彼女のところ行こうか」

と迷う心を、歌っている。

それまでの音楽や、これ以降の音楽にも、このような歌詞が付くものは、ブルース以外にない。

こういう発想こそがブルースだ。

「朝起きたら、寝室にブルースがやってきた」

こういう表現を一々訳すのではなく、この感覚を共有化しないと基本的には理解できない。

そして何よりブルースがすごかったのは、楽曲の形式にとらわれることなく、様々な音楽の形に変化しながら、発展していったことにある。
初期のデルタブルースは、黒人の労働力が南部の綿畑を離れ、シカゴの重工業地帯へと向かって、北へ北へと伸びていくように、変化してきた。
数人~十数人の前で歌うブルースから、ジューク・ジョイントという少し大きな数十人入る酒場で歌うブルースに変わる。
楽器も、大きな音が出る金属の反響版が付くナショナルギターが登場する。

そして、シカゴを舞台としたアーバン・ブルースになると、ドラムやベースに負けないように、エレキギターが登場する。
アーサー・クルー・ダップはエレキ・ギターの初期の人だが、彼の歌をカバーしてデビューしたのが、エルビス・プレスリーだ。

そうしてブルースは、歌い手の要請や、聞き手の要望によって、その表現スタイルを変えて、発展してきた。
このような自由度が高く、しかも人間の心の奥底を、日常の中から自然に歌う、奇蹟的な表現方法を持つ、不思議な楽曲形式、まさにブルースの発想は音楽の可能性を無限に広げている。

★2008/04/01 (Tue)
わたくしが、耳にすることが出来る日本の音楽は実につまらないものが多い。
まず楽曲の構成や発想が押しなべて同じようなものである。
新味がなく、よく言えば常に売れるような標準なもので、音楽が商売となれば、それも当然なのかもしれないが、そこに新しいものを見たり聞いたりするときの、ワクワクドキドキがない。

そしてもっと致命的なのは、歌詞である。
愛の歌にせよ、恋の歌にせよ、実につまらない。
定型的で、野心もなく、同じようなコトバの羅列である。

NHKのBS放送で、たまたまわたくしが見たのは、歌手の井上陽水が自ら選んだ、好きな曲に友部正人の「一本道」があった。
もう35年も前の歌だが、歌う友部の向こうに風景が見える。
それも美化されたものではなく、彼にしか見えない独特の風景だ。
取替えの利かない強烈な個性。

しかし、その歌をほとんどの人は知らない。
CMでタイアップすることもなければ、いわゆるゴールデンタイムなどで放送されることはないから。

同じように強烈な世界を持っているのに平沢進がいる。
楽曲のアイディアもさることながら、その歌詞のすばらしさには驚かされる。
そういった、すばらしい世界が、大きく広まらないのは不思議でしょうがないが、逆に現代にあっては、適当な音楽が求められているのかもしれない。

結局、音楽に何を求めるのか?
わたくしは、音楽の世界から得られる、不思議な空間、感覚を、求めている。
他者との同意や、評論的な話、知識の共有化などには全く関心がない。
ひどいのになると、今売れているものをチェックしておかないと不安でしょうがない人もいるというのだから・・・

先輩も後輩もない、人種も宗教も関係なく、ただただ音楽の下に、魂が寄り添う。
そういう場所で、わたくしは音楽を楽しみたい。


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★ ILLUSTRATION BY nyao