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詰将棋作家の見た世界
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HN:
首猛夫
性別:
男性
職業:
怪しい金融業
趣味:
詰将棋創作 音楽演奏
自己紹介:
昭和31年9月、東京生まれ。
詰将棋作家集団「般若一族」の生き残り。
詰将棋創作以外に、作曲(約100曲くらい)音楽演奏(ベース)。
人間についても、自閉的観点からいろいろ考えている。
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★2008/02/24 (Sun)
人は苦しいときや悲しいときに、心の代償を求める。
そうしなければ次に進めないからだろう。

その心の代償をあらかじめ想定して、様々な「用意」を人類はしてきたのだった。
例えば、宗教や司法制度などは、人の生き死に対して、理念や処罰などを以って、対応してきた。

恐ろしいのは、このような解決策が基本的にはある種の刷り込みで行われることだ。
ある地域に生まれ育ったものは、その地域の宗教を信じて、それを支持する。
もしそうでないと言うなら、宗教は世界的に均等あるいは一定程度の分布的布教を遂げているはずだ。

しかし現実的には、イスラム圏にはイスラム教徒があふれ、欧米にはキリスト教徒があふれている。

ということは、所詮宗教なんてそんなもの、親や育った環境からから刷り込まれているに過ぎない。
それが唯一正しいと信じられるほど、便利なものはない。
なぜか?

それは心の代償行為がそこにあるからだ。

例えば、子供が死んだ。
それが、不治の病だったら?
誰を恨む?

それが、異教徒の自爆テロだったら?
復讐に走るだろう。

つまり、心が苦しくなった時に、そこに何らかの代償行為の道があれば、まっしぐらに行く。

わたくしなら、親しいものが死んだとして、それに何ら代償行為を求めないだろう。
ただただ悲しくて悲しくて、悲嘆にくれるだろう。

なぜなら、心に代償を求めるのは自分のためであり、それをあたかも死んだものの復讐とか敵とか、供養だとかの「偽装」をしてまで、行わなければならない理由がわたくしにはないからだ。

それは、もともとわたくしにとっては、感情を何かに結びつくものではなく、ただただ自身の中で泡のように漂っているものだからだろう。

なぜ人類が感情までも社会化したり対象化したりしてまで、自我を守ろうとするのだろう?
それはきっと、苦しみを解放する方法を共有化することによって、自己不安を一掃したいからではなかろうか。

そういう、基本的な存在にかかわるようなところでの議論は常に省かれて、いつの間にか前提になっている。

わたくしのような存在は、きっとほとんどの人類にとっては、前提を覆されかねない厄介なものだろう。

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★宗教という道具★
Web上でははじめまして。
関係有るような無いような話です。

イスラム教信者の友人(エジプト人)がいるんですが、彼が日本に5年間住んで抱いた感想。
「神というものをほとんどの人が信じていないのにもかかわらず、日本人はみんな心が穏やかで優しい。犯罪率も非常に低い。これは驚くべきことだ。」

彼のその話を聞いて、宗教というモノの存在意義等について「いろいろと」考えさせられました。それを思い出しました。

こうして書いてみると、やっぱり関係が薄い話な気がしてきました(笑)。雑文失礼しました。
のんびりさん URL 2008/02/26(Tue)04:41:06 ★編集
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