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詰将棋作家集団「般若一族」の生き残り。
詰将棋創作以外に、作曲(約100曲くらい)音楽演奏(ベース)。
人間についても、自閉的観点からいろいろ考えている。
日本人の自我のものがたりには、どうやら被害者意識が充満している。
だから、生き方が下手だとか、いつもそんな役割ばかり引き受けているとか、自分や自分の能力を低く言うのが、謙虚で美しいような錯誤が生まれている。
前にも話したかもしれないが、生き方が下手だとか、損な役割を引き受けいるとか、そういう自分を知るには、もっとうまくやれば、得をしたとか、損をしないで済んだのではないかと言う、「計算」が必要だ。
本当に生きるのが下手な人間は、自分が下手かどうかさえもわからないはずだ。
だから、上記のように取り損ねた自分を嘆くには、それなりの上手な「計算」が出来ていなければならない。
だから、そういう自分を嘆く人間は、実は計算高く、そんな役割を引き受けないようにうまく立ち回ることの出来る人間。
それが、あるときに限って、出来なかったことをよく覚えていて、そんな役割「ばかり」と嘆く。
実際には、ほとんどうまく立ち回っているにもかかわらず、この種の人は、少しでも損をしたとなると、まるでいつも自分だけが貧乏くじを引いたかのように、大声を出して悔しがるものだ。
これと同じように、自分は口下手なんだ、いつも相手が饒舌にいろいろうまく言うのでついつい、言い負かされてしまう。
こんな風に自分を語る人は実に多い。
これも、被害者意識の強い日本人独特の、自分を卑下した言い方だが、本当に口下手だから言い負かされるのだろうか?
たしかに人には得手不得手があり、口のうまい人もいるし、口下手もいる。
しかし、多くの日本人が口下手と言う、その自分のイメージは、寡黙で言い訳をせず、多弁で嘘くさい、どこか人をだますようなイメージから遠くはなれたものを作り出そうとしている。
下手とはどういうことになるのだろうか?
例えば、稼ぐのが下手ということになれば、貧乏な生活になる。
自己管理が下手だと、病気になったり、遅刻したりすると、社会的信用までなくする。
つまり下手は、ろくでもない結果を生み、自分にとってよいことはほとんど一つもない。
それを何かの優等であるかのように言い立てて、特別な努力もしないのは、わたくしに言わせれば、仕事もせずに、毎日女の尻を追いかけて、ギャンブルに浪費して、堕落した人生を送っているのと何ら変わりはない。
口下手であっても、それ相応の努力をして、何とか上手に自己を表現したり、コミュニケーションを大切にするべく、相手の気持ちを汲み取ったり自分の望みや態度を上手に伝えるようになれば、大したものである。
こうやって自我のものがたりは、巧妙に人の心の奥底に、邪悪な卵を産み付けて、おかしなことを引き起こしている。
それに気がつかず、自分を正当化すべく、その邪悪な卵を大事に育てている人々がどこか哀れで悲しい。
わたくしには、伝統的な工芸を作る鮮やかな職人芸も、饒舌に語る口のうまい人も、同じように映る。
そして、高倉健のような寡黙で言い訳をせずに、口下手を誇るようなイメージは、大した努力もしないで、出来ない自分を放置して、それでいてどこか泰然と構えている、卑怯なイメージに重なるが、これはわたくしが異常なのだろうか。
もちろん、高倉健は俳優としてのイメージとして、仕方なく持っているに違いない。
買い物をしていて、うるさいのが、店員のいろいろな説明や、販売トークだと、知人が言っていた。
「あ、それお似合いですよ~」
「それ限定品なんですよぉ~」
洋服や靴を選ぶのに、いろいろうるさく付きまとわれると、買う気が失せるそうだ。
そこで、あるデパートが
「SEEカード」
なるものを作って、「しーいっ」と静かにしてくださいと言う意味と、英語の「見る」という意味を掛けて作ったものだろう。
このカードを店に入るお客が入口でつける。
首からぶら下げたり、かばんや着ている物につけたり(紐が付いていて鰐口クリップも付いている)して、意思を表示する。
その意思とは、
「買うものを品定めしている間は、店員さんわたくしを放っておいてね」
というものである。
こうすることによって、お客は安心して自分のペースで買い物が出来る。
店員も、過剰な接待や、押し売り気味に商品を販売することがなくなった。
結構、この店員の声掛け嫌いな人多いのではなかろうか。
保険販売をしているわたくしも、基本的には「SEE」の態度で臨んでいる。
おそらくわたくしが会った保険屋さんで「SEE」と言う態度をとる人は皆無で、わたくし自身が始めてだ。
なぜわたくしが「SEE」かと言えば、保険の加入は基本的に、加入者自身が決めることだからである。
わたくしの役目は、どんな形があるのか?どんな危険性に対処できるのかと言った商品そのものの説明などを求められた時に、それをその人の理解力に合わせて、説明することだろう。
加入をいたずらに勧めたり、しつこく何度も勧誘したりは、基本的に出来ない。
しかし、お客様として店員に入る人、保険の加入を考える人、それらの人々はなぜはっきり「NO!」と言わないのだろうか?
「SEE」カードと同じように、「妊産婦」であることを示すカード、会社の打ち上げなどの時に使う「お酒飲めませんカード」等々、驚いたことにこういうカードが増えていると言う。
「妊産婦」カードは、電車などで一目でそれとわかる妊婦ならまだしも、わからない人もいる。
だから、席を譲ってもらえない辛さを味わった妊婦がたくさんいるらしい。
たしかに、「わたくしは妊婦なので、あんたたち席譲ってよとは」なかなか言えないだろ。
また、会社の打ち上げなどで、いくら酒が弱い飲めないと言っても上司からの勧めをそうそう断れるものではないだろう。
ましてや、酒の席である。
普通の感覚はもはや破壊されている?ので、いくら酒が飲めないと言っても通用しない場合が多い。
そこで、「お酒飲めませんよカード」これをぶら下げてあらかじめ、上司の無謀なお酒の勧めを未然に防ぐ効果があると言う。
こういうのは、お酒の先の雰囲気を壊さぬような配慮も考えてのことだろう。
いずれにせよ、はっきり「NO!」と言わない文化を背負った日本的な発明・発案だ。
今日はここまで、明日は「口下手」や「うまく伝えられない」ことがまるで美徳のように語られる日本的文化のあざとさを解き明かそう。
しつこい人は概して嫌われる傾向にある。
粘着気質は、しつこいだのねばねばして気色悪いだの、あまりよくない気質として扱われるようだ。
ところが、迷宮入りの事件を解決する粘り、新たな医療・薬品を開発する根気、等々すばらしいことの裏にはこの粘着気質が重要な役割を果たす。
一般に、自分にとって都合の悪いことや触れられたくないようなことを、いつまでもいい続けるようなことを指して「しつこい」と言うのであろう。
ここで一つの疑問がある。
それはある夫婦の問題である。
「夫がしつこい性格で困る」
「話が始まると、わたくしが『うん』と言うまでしつこく話をやめない」
妻からのコトバである。
そこでわたくしは、ふと
「どうして『うん』と言わないの?」
とたずねたら、
「どうしても違うと思ったから、あたしって頑固なのよね」
え?頑固?
それって、中々認めようとしないでかたくなに否定している姿?
だったら、しつこさで負けてないじゃない・・・・
そう賢明な人ならすぐにお分かりだろうが、
しつこいと言う事柄が現実に出現するには、そのしつこさを表す人に、しつこさを出させなければならない。
つまり、しつこい人と、そうでない人がいた場合、しつこい人はそのしつこさを表現できない。
なぜなら、しつこくない人があっさりいろいろと認めるか、もし認められない場合は、それを簡潔に表現して終わりだからである。
相手もこちらもしつこいから、いつまでも対立や議論が終わらず、終わらない有様が出て初めてしつこいと言うことがわかるのである。
ここで、わたくしがえらいと思ったのは、この妻の態度である。
そういうことを伝えると、普通、
「わたくしは、しつこくなんかない!」
と激怒したり、膨れたりするものだが、笑いながら、
「いいことを聞いたわ、まさに目から鱗だわ」
と言ってのけた。
さすがである、立派である。
人はすべからずこうでなくてはならない。
人は、素直さが大事であるが、こういう時に素直になれる人はそういない。
感心したしだい。
同じようにケチの発見もある。
みんなが気前がよく、ケチな人がいない集団に、ケチはいない。
え?当たり前だって?
ところが、あの人ケチなのよねといわれる人が存在するためには、ケチな行為をしなければ成らない。
そのケチな行為は、同じようにお金を捻出するように要求する人の周囲の人々がいないと、証明できない。
周囲が、そのようなお金の捻出を要求しない人たちばかりだと、ケチを出す暇がない。
まあ、多少デフォルメされた部分や強調された部分がある話だが、大意は読み取ってもらえると思う。
最後に、一本木で頑固なイメージと、粘着気質でねばねばしつこいイメージとは重ならないのだろうか?
これが不思議でしょうがない。
両者には差がない。
一つのことにこだわって、そこから中々抜け出せない、抜け出さないイメージは両者に共通しているもの。
どうも、同じことなのに片方にはそれを悪く言う意図がこめられ、もう片方には賞賛する意図が見え隠れしている。
きっとそれは、そのような言いかえが必要な自体があるから生じたものだろう。
そしてそれはわたくしが最も苦手とする《お世辞》が闊歩する場面ではないかと密かに思っている。
木を見て森を見ない
よく使われる言葉だ。
確かに瑣末(さまつ)なこと《=木》に目がいっては、全体《=森》が見えなくなる。
このようなことで《見えない》のではなくて、わたくしには
『現実の世界』
とそれを象(かたど)った
『コトバの世界』
の両者の差がわからない。
もちろん現実の世界には机上の計算通りにはいかない難しさがあり、それを指して
『世の中そう理屈通りに、うまくはいかないものだ』
などと言う人が多い。
しかしそれは違う。
現にわたくしは保険の営業をして毎年表彰され、ご褒美に海外旅行に連れて行って貰えたが、その成功は机上の理屈から来たものである。
机上の計算と言うが、それらの大半は現実を無視したり美化したりするから、うまくいかないのであって、きちんと現実を反映させればほぼ計算通りの結果になる。
例えばわたくしが立てる一日の計画には実に休み時間が多い。
だいたい2時間の仕事に対して1時間の休憩を入れる。
そうしてあくまで自分の力量や環境を考慮して計画を立て、後は実行するのみ。
だから、わたくしに読み取れない《コトバの世界》は少し意味が異なる。
例えば、お世辞がわからない。
相手に対する過大な評価である《お世辞》には何らかの意図がある。
わたくしはどちらかと言うと、ものを作るのが好きで10代の頃から作曲したりパズルを作ったりしていた。
より素晴らしいものを作ろうと努力していた頃で、《お世辞》は不要だった。
むしろ厳しい評価や上を目指す動機付けになるような意見を欲していた。
つまり現実とコトバにズレがない世界に身を置いて生きたかった。
それ以外には興味も関心もなかった。
ただし、興味がないとか好きじゃないと言うのと、理解出来ないと言うのとでは、意味が異なる。
理解できないから避けてきたのでもなさそうだ。
相手がわたくしに《お世辞》を言うのには、それなりの意図がある。
おそらくそれは《お世辞》を言うことによって相手とわたくしの関係を良好な方向へと導けると思っているからだろう。
確かに他人から悪く言われるよりは良く言われる方が、気分はいいに決まっている。
歯の浮くような見え透いたお世辞だって気分はそう害さないだろう。
しかし、気分が良いと言うのと良好な関係が築けるのとは少し違う。
だから、まさか相手が「関係性の維持や、良好のために」過大な評価を持ってわたくしに接するとは夢想だにしないのである。
言葉を額面通りに受け取ると言うのは、まさにこのことで、現実の世界と言葉の世界が異なり、しかもそれらが、現実に根ざしていないものだとは、想定し得ない。
もしこれが、想定しうる範囲として、多くの人々が認識しているとすれば、それはとても恐ろしいことだった。
そして、それが本当のことで、幼い子供だってそのくらいの《お世辞》を言って、おじいちゃんやおばあちゃんから、お小遣いをせしめるくらいは朝飯前なのだ。
こういうわたくしは、幼い頃からよくからかわれた。
額面通りにしか受け取れない、わたくしのような者は、見ているほうは面白くてしょうがない。
ところが、からかわれたわたくしは、それがからかいなのかどうかもわからないので、からかう方はやがて、面白くなくなる。
やはり、からかわれたほうが口をとんがらせて、いろいろ不満を言ってくれないと、反応がないのではつまらない。
なぜ、他のほとんど多くの人々が、《お世辞》がわかるのに、わたくしにはわからないのだろうか?
いろいろ考えてみたが、わからないからこういう世界(わたくしのようなものが持つ文化)が出来上がったのか、あるいは反対に、こういう世界を持つものだから、《お世辞》がわからないのか?
結論は出ない。
ただ、そういうことがわからない人間なのだと言う認識を持ってからは、少し注意して、ある条件が重なると相手がそういう態度をとることが少し見えてきた。
文化の違う国に言って最初は戸惑っていたが、段々となれるにしたがって、ある程度の対応が可能になってきたのと同じことだ。
それにしても、《お世辞》が理解できない保険の営業職なんて・・・・
数年前まで、医師が処方できる薬の量は2週間分と定められていた。
十二指腸潰瘍の患者さんにその薬を処方すると、患者さんは2週間ごとに薬を取りに来なければならない。
医師のい言う通りに薬を飲んでいれば、2週間でなくなるからである。
ところが、患者さんのうちの半数は3週間ごとだったり、4週間取りに来なかったりと結構いい加減な人もいたらしい。
ここからが面白いのだが、わたくしの主治医は、きちんと統計を取る人で、定められた日ごとにきちんと取りに来る人たちよりも、いい加減な人たちの方が、十二指腸潰瘍の治りが早いというのである。
治療に前向きできちんと医師の言う通りにしている人たちよりも、いい加減な方が治りが早いとは!
どうやらこれは神経的なことと深く関係していることのようだ。
つまり、大らかに、適当な態度で構えている方が、十二指腸潰瘍にはいいらしい。
あまり杓子定規に物事をとらえ行動するのは、この病気にはあまり良くないのだろう。
さて、わたくしが困るのは、この
「適当な態度」
の適当さである。
わたくしのようなどちらかというと自閉的傾向にあるものは、言葉や態度を額面通りに受け取る傾向がある。
裏が読めないのではない。
裏があることすらなかなか気がつかない。
だから皮肉を言われても気がつかなかったり、このような適当さがよくわからなくなったりする。
きちんとしている態度を100%ととして、いったい何%減らせれば「適当な」ものなのだろうか?
おそらく、こういう「適当さ」をほとんどの人は何となく了解してわかっている。
だから大した説明もなく了解できるし、その了解できるという事実を元に社会が成り立つ。
しかし、アスペルガー症候群などの自閉的傾向の持ち主は、これがわからない。
当たり前すぎて説明を求められてもどう説明したらよいのかわからない時がある。
それと同じ戸惑いを周囲に与えてしまう。
もちろん、当の本人であるこちらはもっと戸惑っているのだが。
時と場合によっては、こちらが真剣に尋ねているにもかかわらず、当たり前すぎたことを聞かれているので、相手が怒ってしまったり、不快な感情が流れたりする。
ではこの「適当さ」を図る能力とは一体何だろうか?
そしてわたくしはそれがわからないことによってどんな世界が出来上がりそれは、当たり前の世界とどこか違うのだろうか?
明日もまた考えてみたい。